P | 項目 | 適用 |
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11 | 道徳の基礎 | 私の正邪善悪の観念を形成して居る各種の要素の分析を始めてから、之等の観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをやうやく見出したのである。 |
23 | 武士道の表徴 | 武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。 |
25 | 不文律の教え | 武士道は(上述の如く)道徳的原理の掟であって、武士の守るべきことを要求されたるもの、若くは教られたるものである。それは成分立ではない。精々、口伝により、若くは数人の有名なる武士若くは学者の筆によって伝へられた僅かの格言があるに過ぎない。寧ろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録された律法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められて居るのである。それは、如何に有能なりといへども一人の人の頭脳の創造ではなく、又如何に著名なりといへども一人の人物の生涯を基礎にするものではなく、数十年数百年に亙る武士の生活の有機的発達である。 |
26 | 封建制 | 時に関する限り(武士道は)その起源は封建制と同一であると見てよかろう。併し乍ら封建制そのものが多くの糸によって織り成されて居るのであり、武士道もその錯綜せる性質を享けて居る。 |
32 | 神道 | 神道は中世の基督教と異なり、その信者に対し殆ど何等の信仰箇条(クレデンダ)も規定せず、却って直截簡単なる形式の行為の基準を供給したのである。 |
33 | 知識は二次的 | 武士道は(かかる種類の)知識を軽んじ、知識はそれ自体を目的と求めるべきではなく、叡智獲得の手段として求めるべきであると為した。 |
34 | 王陽明と聖書とその類似 | 「先ず神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらのものは汝らに加へらるべし」(陽明)「天地生々の主宰、人にやどりて心となる。ゆえに心は活物にして、常に照々たり」「其本体の霊明は常に照々たり。その霊明人意に渡らず、自然より発現して、よく其善悪を照らすを良知といふ、かの天神の光明なり」(陽明門弟・三輪執齋) |
36 | 義 | 義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士に取りて卑劣なる行動、曲りたる振舞ほど忌むべきものはない。 |
38 | 義理 | 義理といふ文字は「正義の道理」の意味である。 |
40 | 勇・敢為堅忍の精神 | 勇気は、義の為に行はれるのでなければ、徳の中に数へられるに殆ど値しない。孔子は論語に於て、その常用の論法に従ひ消極的に勇の定義を下して、「義を見て為さざるは勇無きなり」と説いた。この格言を積極的に言ひ直せば、「勇とは義しき事を為すことなり」である。 |
42 | 勇気=平静 | 勇気が人のたましひに宿れる姿は、平静即ち心の落著(おちつき)として現はれる。平静は静止的状態における勇気である。 |
45 | 仁・惻隠の心 | 愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、即ち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。「君子は先づ徳を愼む、徳有れば此れ人有り、人有れば此れ土有り、土有れば此れ財有り、財有れば此れ用有り、徳は本也、利は末也」(孔子・大学)「仁とは人なり」(中庸) |
46 | 封建制≠専制政治 | 封建制を専制政治と同一視するは誤謬である。 |
55 | 礼儀作法 | 礼儀作法は精神的規律の単なる外衣である。 |
55 | 礼道の要 | 「礼道の要は心を練るにあり。礼を以て端座すれば兇人剣を取りて向ふとも害を加ふること能はず」(小笠原流宗家・小笠原清務) |
57 | 礼儀 | 礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美なる表現である。 |
60 | 誠 | 真実と誠実と無くして、礼儀は茶番であり芝居である。(略)孔子は中庸に於て誠を崇び、之に超自然力を賦与して殆ど神と同視した。曰く、「誠は物の始終なり、誠ならざれば物無し」 |
62 | 商業 | 人生に於ける凡ての大なる職業中、商業ほど武士と遠く離れたるはなかった。商人は職業の階級中、士農工商と称して、最下位に置かれた。武士は土地より所得を得、且つ自分でやる気さへあれば素人農業に従事することさへ出来た。併し乍ら帳場と算盤は嫌悪された。(略)ディル教授は『西帝国最後の世紀に於けるロマ社会』に於て、ロマ帝国衰亡の一原因は、貴族の商業に従事するを許し、その結果として少数元老の家族による富と権力の独占が生じた事にあると論じて、吾人の記憶を新にする所があった。 |
66 | 名誉 | 名誉の感覚は人格の尊厳並に価値の明白なる自覚を含む。 |
69 | 寛大・忍耐 | 繊細なる名誉の掟の陥り易き病的行き過ぎは、寛大及び忍耐の教によって強く相殺された。些細な刺激によって立腹するは『短気』として嘲られた。(略)偉大なる家康の遺訓の中に次の如き言葉がある、――「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己を責めても人を責むるな」彼はその説きし所を自己の生涯の於て実証した。ある狂歌師が我が歴史上著名な三人物の口に各々の特徴を示す次の句を吐かせた。信長には「鳴かざれば殺してしまへ郭公」、秀吉には「鳴かざれば鳴かせて見よう郭公」、而して家康には「鳴かざれば鳴くまで待たう郭公」。 |
70 | 道 | 「道は天地自然のものにして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とする。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(西郷南洲) |
72 | 忠義 | 封建制度中他の諸徳は他の倫理体型若くは他の階級の人々と共通するが、此の徳――目上の者に対する服従及び忠誠は截然としてその特色を為して居る。 |
73 | 忠と孝 | 支那では儒教が親に対する服従を以て人間第一の義務と為したに対し、日本では忠が第一位に置かれると、グリフィスが(『日本の宗教』のなかで)述べたのは全く正しい。 |
80 | 武士道の教育及び訓練 | 武士の教育に於て守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。 |
81 | 非経済的な武士道 | 武士道は非経済的である。それは貧困は誇る。それはヴェンチディウスと共に、「武士の徳たる名誉心は、利益を得て汚名を被るより寧ろ損失を選ぶ。」 |
82 | 清貧の武士 | 「文臣は銭を愛し、武臣は命を愛しむ」 |
84 | 報酬 | あらゆる種類の仕事に対し報酬を与へる現代の制度は、武士道の信奉者の間には行はれなかった。金銭なく価格なくしてのみ為される仕事の在る事を、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的な勤労は金銀を以て支払はれるべきではなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。此点に於て武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教へたのである。蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき種類の仕事に対してのみ支払はれる。然るに教育に於て為される最前の仕事――即ち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。 |
85 | 克己 | 一方に於て有の鍛錬は呟かずして忍耐することを銘記せしめ、、他方に於て礼の教育は我々自身の悲哀若くは苦痛を露わすことにより他人の快楽若くは安静を害せざるやう要求する。此の両者が相合してストイック的心性を産み、遂に外見的ストイック主義の国民的性格を形成した。私が外見的ストイック主義といふわけは、真のストイック主義は一国民全体の特性となり得ざることを信ずるが故であり、又我が国民は実際天下の如何なる民族にも劣らず優しき情緒に対して敏感である。 |
91 | 自殺及び復仇の制度 | 切腹が我が国民の心に一点の不合理をも感じしめないのは、他の事柄との連想の故のみでない。特に身体の此の部分を選んで切るは、之を以て霊魂と愛情との宿る所となす古き解剖学的信念に基づくのである。 |
93 | 死 | 武士道は名誉の問題を含む死を以て、多くの複雑なる問題を解決する鍵として受け容れた。之が為め功名心ある武士は、自然の死に方を以て寧ろ意気地なき事とし、熱心に希求すべき最期ではない、と考へた。 |
98 | 死に急ぐ卑怯 | 真の武士に取りては、死を急ぎ若くは死に媚びるは等しく卑怯であった。 |
100 | 仇討ち | 刑事裁判の無き時代にありては殺人は犯罪ではなく、ただ被害者の縁故者の附け狙ふ復仇のみが社会の秩序を維持したのである。 |
10 | 刀・武士の魂 | 武士道は刀をその力と勇気の表徴と為した。 |
112 | 身を棄てる | 女子がその夫、家庭並に家族の為に身を棄つるは、男子が主君と国との為めに身を棄つると同様に、喜んで且つ立派に為された。 |
113 | 自己犠牲 | 私が明かにせんと欲する点は、武士道の全教訓は自己犠牲の精神によって完全に浸潤せられて居り、それは女子についてのみではなく男子についても要求せられた、といふ事である。 |
121 | 理想としての武士 | 武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、俚謡に歌はれる。 |
121 | 商業の禁止 | 武士階級は商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。 |
121 | 影響(武士道の) | (封建制度下の日本の)如何なる人間活動の路も、如何なる思想の道も、或る程度に於て武士道より刺戟を受けざるはなかった。知的並に道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。(略)武士道はその最初発生したる社会階級より多数の道を通りて流下し、大衆の間に酵母(ぱんだね)として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良(エリテ)の光栄として始まったが、時を経るに従ひ国民全般の渇仰及び霊感となった。 |
122 | 大和魂 | 平民は武士の道徳的高さに迄は達し得なかったけれども、『大和魂』は遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った。 |
126 | 大和魂 | 「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰) |
127 | 指導原理として武士道 | 旧日本の建設者であり且つその所産たりし武士道は現に尚過渡的日本の指導原理であり、而して又新時代の形成力たることを実証するであろう。 |
127 | 近代の偉人への武士道の影響 | 現代日本(明治時代)の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、又伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ――然らば彼等の思索及び行動は武士道の刺戟の下に行はれし事を知るであらう。極東を研究し観察したるヘンリー・ノルマン氏は、日本が他の東洋専制国と異なる唯一の点は「従来人類の案出したる名誉の掟の中最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有する事」にあると言明したが、之は新日本の現在を建設し且つその生来の運命を達成せしむべき原動力に触れた言である。 |
130 | 感化(武士道の) | 武士道の感化は今日尚深く根ざして強きものがある……無意識的且つ沈黙の感化である。 |
137 | 弔鐘(武士道の) | 一八七〇年(明治三年)廃藩置県の勅令が武士道の弔鐘を報ずる信号であった。その五年後交付せられし廃刀令は、「代価なくして得る人生の恩寵、低廉なる国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保姆」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代を鳴り迎へた。 |
138 | 神の国の種子 | 日本人の心によって証せられ且つ領解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。 |
138 | 日暮れ(武士道の) | 悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。 |
140 | 不滅(武士道の) | 武士道は一つの独立せる論理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであらう。その武勇及び文徳の教訓は体系として毀れるかも知れない。併しその光明その栄光は、之等の廃址を越えて長く活くるであらう。その象徴(シンボル)とする花の如く、四方の風に散りたる後も名さへ忘らるる日到るとも、その香は、「道辺に立ちて眺めてやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであらう。――この時かのクェカー詩人の美しき言葉に歌へる如く、 何処より知らねど近き香気に、 感謝の心を旅人は抱き、 歩みを停め、帽を脱(と)りて 空よりの祝福を受ける。 |