『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店
1997年2月5日 第1刷
高橋紳吾

項目適用
108依存俗な言い方であるが、人の弱みにつけこむとは、不幸で弱っている相手の心理状態をさらに揺さぶって、不安定にし、もはやその人を頼るしかないという気持ちにさせるということである。
35エリートエリート…かれらはいつも問題にたいして機械のように正しく即答するトレーニングを受けている。学生時代の彼らの頭のなかには理不尽なものや、曖昧なものは存在しない。それはこれまで「解答のある問題」しか与えられてこなかったからだしかし現実の人間は多くの不条理のなかで生きざるを得ない。豊かな社会の問いのほとんどが「人間」の心の問題なのである白黒はっきりすることは少ない。
143学者と知識人特定分野しか知らない学者や知識人ほど世間知らずで危うい存在はない。現代でも発展途上にある宗教教団は学者や有名人を広告塔に利用する。人々の判断は「権威」や「人気」に強い影響を受けるからである。
198カルト教団カルト教団…攪乱やリスク・トーク、情報操作などの詐欺的な伝導【形式】にあることを強調しておきたい。布教のパワーにだけたよってなんらの信仰的深まりをもたない、正確にいえば人格的な成熟を助けない、否、むしろ成熟を妨げ、心を隷属させるだけの破壊的カルトへの警戒を続けることが、本来的な意味での信教の自由を守ることにつながるということを強調しておきたい。
195考え方からの脱却の困難さ人がなにかを信じるということはとてつもないエネルギーを必要とするものであるが、その信じていたものを捨てるという作業は、さらにその何倍もの労力を必要とするのである。もっと正確に言うと、なにを信じていたのかが問題なのではなく、獲得されたものの考え方(思考パターン)が癖になっていることが問題なのだ。この歪んだ認知、すなわちカルト根性から自由になること、これがしばしばひどく困難のである。
12韓神仏教は韓からきた神という意味で韓神ともよばれていた。
92祈祷性精神病祈祷性精神病−森田療法(神経症にたいする禅を応用した心理療法)の創始者である森田正馬教授が1915年に称えた心因性の精神病で「加持祈祷もしくは類似した事情からおこって人格変換・宗教妄想・憑依妄想などを発し、数日から数か月にわたって経過する特殊な症例」で森田は「祈祷性精神症」と呼んだ。
6蠱道虫への信仰である蠱道(こどう)は、後漢時代の民間信仰であった道教の得意とするところであった。蠱というのは皿の上に三匹の虫がのっていることを表している。壺のなかにムカデ、毛虫、トカゲ、クモなどを入れて、互いに食わせて生き残ったものに特別な霊力を与えて信仰の対象とした…。
43自我意識簡単に言うと、自我意識は、いま行為した近くしているのはまさにわたしであるという【能動性の意識】、さらにわたしは一人であるという【単一性の意識】、過去から現在、未来までわたしは同じ自分であるという【同一性の意識】、…「外界に対立する自我の意識」、すなわち【限界性の意識】の四つの指標から成り立っている。
70自我の破壊法一般的に言って短い睡眠だったり、断食に近い飢餓状況にあると、自我の枠組みはいっそう壊れやすい。
209死にがい・生きがいの喪失わが国では「死にがいの喪失」が言われ始めたのは、1970年代である。戦争を体験していない当時の若者たちは「死にがい」もないと同時に「生きがい」もない「のっぺりした人生」を送っていると描かれたが、かれらには戦争世代にあい「やさしさ」があるとも指摘された(井上俊『死にがいの喪失』筑摩書房、1973年)
20シャーマンシャーマンとは、心神喪失ないし人格変換を基本とするトランス、幻の声を聞くなどの幻覚、さらにインスピレーションや夢などによって超越的存在と人とを媒介する者で、僧や神官などの祭司とはちがう。
215釈迦におどしの言説なし教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。
127宗教家の真偽むかしから真の宗教家とにせの宗教家の区別がさまざまに試みられてきた。はっきりと区別することは困難だというのが大方の結論である。しかし大まかに次のような区別が可能となる。高い支配性や野心的な言動はにせ預言者の印である。それは自尊心と周囲からの認知・尊敬にたいする欲求に由来するからだ。それらは、しょせん哺乳動物の縄張り意識と、霊長類の支配−被支配の関係が変形したものにすぎない。
39宗教体験時代背景によって異なっているが、基本的には次の四つの特徴をもっている。(1)言い表しようがない。つまり言語化できないということで、体験した本人しかわからない。(2)認識的性質、すなわち「真理」の深みを洞察する。(3)暫時性、すなわち神秘体験は長い時間続くことはない。(4)受動性、つまり自分の意志の働きがなく、ある高貴な力につかまれているように感じる。W・ジェームスの有名な定義である。(『宗教的経験の諸相』(桝田啓三郎訳)岩波書店1970)
68常同症精神医学に常同症(ステレオタイプ)という概念がある。これはかなり進行した精神分裂病者にしばしば見られる現象で、同じ動作や行為をいつまでも繰り返す意欲の調節障害という症状である。見かけは同一意志が持続して、長く同じ動作や行動を反復持続しているように見えるが、これは意志が強固であるためではなくて、むしろ意志の調節力ないし支配力が弱まったため、大脳に本来そなわっていた精神−運動性のメカニズムが統制から解除されて自動的になり、意味のない反復となって現れたと解される現象である。常同症は行動のみならず、表情、姿勢、言語、書字などにも現れる。
2信教の自由の矛盾考えてみると、信仰者は熱心であればあるほど自分の信仰する意外のものを認めず、他宗教を否認ないし攻撃するということがしばしばおこり、信教の自由という法体系によって守られるまさに信仰者自身が、心情的には信教の自由からもっともとおい位置に立ってしまうという矛盾を呈することになる。
66スーフィズムスーフィズム…
  1. 広い場所に立って、左手を水平に伸ばし、手の平をしたに向ける。地のエネルギーをもらうためである。
  2. 右手を水平に伸ばし、手の平を上に向ける。天のエネルギーをもらうためである。
  3. 意識を心臓に集中し、心臓が宇宙の中心であるとイメージする。
  4. 左足を軸にして、ゆっくりと反時計まわりに回る。
  5. 目が回って、それ以上続けられなくなったら、横になって休む。
220成人への通過儀礼の喪失大人になるプロセスとしての通過儀礼が現代の日本に存在しないということである。
218世界没落体験青年期に初発する精神分裂病に「世界没落体験」という症状がある。急性期に現れる妄想で「世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した」などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は「自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ」と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。
一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。「自分とは何者か」、「何処からきて何処へ向かうのは」、「何をすればよいのか」と真剣に悩む。
世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである。
160体験と観察への依存人は具体的体験や観察に基づいた証拠を前提にして信念を形成していくのだが、体験とか観察というものが、必ず「正確」なものであるというのは美しくも悲しき誤解である。
菊池聡・谷口高士・宮元博章編著『不思議現象、なぜ信じるのか−−こころの科学入門』北大路書房、1995年。
65単調な繰り返し単調なリズムと同じ動作の繰り返し。それによって原始心性が甦るということがシャーマニズムの基本である。
64超越思考宗教おたくというのは、「超越」思考の強い若者が最近とみに増えている。
47東洋的瞑想の心理学C・G・ユング『東洋的瞑想の心理学』創元社1983
…明快な説明だが、意識のエネルギーだとか、それが蓄積されるだとかといった論旨は「精神の物質化」に近く、いくら学術的言辞をちりばめていても、これでは「気」のエネルギーを提唱する超心理学者と大差ない。ユングの評価が人によって著しく異なるのもこの当たりに責任があると私は考えている。
58内観の法禅病の治療法
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「内観の法」とは、現代の丹田呼吸法に通ずるような、呼吸を長くして、身体の各部に注意を向ける観想法だが、基本的には現代の心身医学で行っている自律訓練法とよく似た方法である。
一方の「軟酥の法」の軟酥とは、牛や羊の乳を煮つめてそのうわずみをからつくるクリームチーズのようなきわめて貴重なものであった。それをイメージ療法として使うのである。
  1. 静かな部屋に閉眼して座り、腹式呼吸で心身を深くリラックスさせる。
  2. 頭の上に鴨の卵ほどの大きさの軟酥が乗せてあるとイメージする。これには仙人がくれた妙薬が練り込まれていて、色も美しく、えもいわれぬ香りが漂っている。
  3. しばらくすると体温で軟酥が溶け始め、頭上からたらりたらりと流れ出し、からだの内外をゆっくりとくだるのをイメージする。
  4. 溶けた軟酥が脳のすみずみに流れ、首から両肩、両腕、両手の先にまでしみわたり、肺、心臓、胃、肝臓、腎臓、腸へと内臓をうるおしていくのをイメージする。
  5. 背骨や肋骨、尾てい骨まで、からだ中の骨に軟酥がしみこむのをイメージする。
  6. 軟酥が流れ落ちるにつれて、胸のなかにわだかまっていた悩みや苦しみ、しこりやかたまりも一緒に流れ落ち、ゆっくりと脚のほうに流れていくのをイメージする。
  7. 軟酥がさらに両脚に伝って流れ、足の裏まで流れてそこから外に出ていって消えるのをイメージする。これを何回も繰り返す。
「鼻は妙香をかぎ、からだはにわかに妙風につつまれ、心身に調和がよみがえり、精気が充満して、壮気ははなはだすぐれるものあり」と白隠は述べている。
175不確定性原理ハイゼンベルグの不確定原理は、物理学のみならず思想と哲学にも、因果律を否定するものとして大きな影響をあたえた。
53ホロトピックホロトロピックとは「全体に向かう」という意味の造語で、初代のトランスパーソナル学会の会長であるスタニスラフ・グロフ博士が考案した。
182マインド・コントロールマインドコントロールとは「自分が洗脳されているという抵抗感が少ないままになされる心理操作」のことでより洗練された洗脳である。
101水子の祟り歴史的には水子が祟るという発想はごく最近のものであって、ほんらいの日本人の信仰体系では水子は神の子であった。この世で罪を犯さずに死に、いつの日にか再生する宿命をもっているのであるからである。しかしこの20年のあいだに事情が異なってきて、都市生活者によって、聖なるものから魔界のものへおとしめられたのである。その理由としては現代都市住民の子供にたいする意識変化や、都市では水子を満足に祀る方法がないことがあげられている。…今日ある水子霊への不安は、1970年代から急速にブーム化したものであることを考えると、それは一部の心ない宗教教団によって仕組まれたもので、大都市・江戸の末期に流行したキツネツキと同じようなからくりがあると考えたとしても、それほど矛盾はないのではなかろうか。つまり憑く者、憑かれる者、落とす者の三者のうち、落とす者がツキモノ発生の真犯人であったというわけだ。
46瞑想の精神科学安藤治『瞑想の精神医学−−トランスパーソナル精神医学序説』春秋社1993
192妄想症の伝染精神科医は物理的に子供をカルトから分離させなければ洗脳を解くことは難しいということを知っている。我々は二人組精神病、感応精神病と呼ばれる、妄想症の患者の妄想が第三者に「うつった」病態の治療経験を積んでいるからである。
(高橋紳吾「二人組精神病と洗脳」『イマーゴ』1993年9月号。)
126預言者預言者とはそもそも支配力の高い人間を言う。高い支配力にはほぼ例外なく強い性的衝動(リビドー)が伴う。
しかしである。人の精神の発達は、その欲求を肉体のレベルから精神のレベルへ、世俗から超越へと、次第に(上方へと)順次進化させることによってなされるものである。まず安全についての欲求。次に性と愛の欲求。次に自尊心と周囲からの認知、尊敬に対する欲求。最終的には創造的自己表現、すなわち「自己実現」への欲求である。真に宗教的な人間とはセックスや尊敬にたいする欲求よりも、さらに高い欲求に駆られている人間であるはずだ。
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その(預言者の)人物が外向的であれば、この異常性格から、ある一つの傾向が導かれる。それが「空想虚言者」(Pseudolgia phantastica)である。自分が特殊な才能(たとえば霊能)をもっていると空想する。空想虚言者にとっては空想と現実はしばしば混同され、さらにそのことを誰かに口外することによって、自分自身が本当に霊能者であると自ら信じ込む。虚言は次第に大きなもへと向かい、最終的には自分こそが教祖、救世主、最終解脱者であり、これに異見を唱えるものにたいしては徹底的に闘うという、とても困った人たちなのである。そして歴史的にも、多くの空想虚言者が出現し、多くの人が騙されてきた。


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