両親と姉の入信は1953年のことです。わたしは1955年に「五体満足」、おまけに「男の子」であったことから、障害者蔑視、男尊女卑のような表現までされて歓ばれたわけです。まあ、グループ流の言い方をいたしますと、「すばらしい功徳である」と美化されたりもしました。
しかし、実のところは少し違っています。いよいよ出産の予定日も近づいたころ、いつものように母は仏壇の前で拝んでいますと、正座をしている両太股の間をめがけて、大きな蜘蛛が走り込もうとした。それに驚いて立ち上がった瞬間に破水をしてしまうのです。度重なる苦労、貧困、障害者の子どもがいた心労も原因の一端をなしていたと思います。結局、妊娠中毒症になります。産道が開かなくなり、「帝王切開をしなければならない」と言い渡されます。1955年というのは、いまから45年も前のことです。現代は帝王切開手術といいましても、それほど、命に関わるものではないそうです。しかし、当時はほとんど「母親が死ぬか子どもが死ぬか」という大手術であったようです。手術に当たり、お医者さんが「手術をしたら、あなたが死んでしまう。産道から器具を入れて、子どもの体をバラバラにして取り出そう」と言われた。けれど、母は「あたしが死んでもいいから子どもを助けてください」ということで、いよいよ手術になったとのことでした。
いまでは点滴という医療技術が発達しましたが、当時はリンゲル注射というのでしょうか、ほんとに太い巨大な注射器で、看護婦さんが少しずつ少しずつ、何時間もかけて薬液を注入するものであったそうです。母は、やはり意識不明の重体となりまして、この注射を何本も受けた、最後には胸骨のところにドリルで穴を開けて輸血までした。それでも、もう手の施しようがないところまでいくのですが、なんとか奇跡的に一命を取り留めることになります。
ところが、それを機に、産褥(さんじょく)性精神病という診断、いまではこの言い方はしないそうですが、極度の精神分裂症を患うことになります。ただ、本当の精神病であれば乖離状態というのでしょうか、自分が行ったことを快癒後、覚えていないというのですが、母ははっきりと記憶をしております。長じてから、そのころのことをよく話して聞かされました。
病院から、やっとのことで退院して、わたしを連れて家に帰ってくると、障害者の姉がいるわけです。町工場ですから、始終ゴオゴオと騒音が鳴り響いています。そのなかで医者にかかるお金もほとんどない状態です。そこにグループの幹部がやってきて、「あなたの病気を治すのは、もう信心しかない!」と叱咤激励するわけです。もう頼れるものは「御本尊」のみとなったのでしょう。必死に拝むしかないことになったわけです。
母の述懐です。心の病でした。仏壇に向かおうとしても、集中できないわけです。上の空というのですか、空(くう)を見上げてしまうというのです。すると天井に、パッパッときれいな花が咲いて見える。「あ、花が咲いたな」と思いながら、仏壇に向かうと、そこからお坊さんが出てくる。次の瞬間、耳元で「死んじゃうよぉ」と血も凍るような声が聞こえる。それで怖くなって逃げようとします。先ほども話しましたとおり、隣に勧誘をしたおばあさんがいるので、そこに行こうとして外に飛び出すと、今度はどこからともなく、堰を切ったように大水が出てきて頸まで漬かってしまう……。
もちろん実際のことではありません。そのような幻覚と言いますか、幻視・幻聴の症状が起きたということでした。症状は随分と長いこと続いていたようです。幼いころの記憶を手繰ると、おかしかった母の姿を、かすかながら思い出せます。併せて、姉の障害ということもありました。姉は高熱の後遺症であったのか、日に何度も癲癇(てんかん)を起こしておりました。突然、倒れ痙攣するのです。子どものわたしにとって、それは震え上がるほど、怖いものでした。これが、幼児期の恐怖体験となっていました。
ですから、育つ過程のなかで母の精神分裂病(総合分裂症)を原因とする奇怪な行動、姉の心身障害、取り分け知能障害、さらには癲癇症状という有様が、強迫観念として、常に働き続けていました。「信心をちゃんとしないと、母・姉のようになってしまう」という恐怖感です。精神障害・癲癇症状を忌避するというのは差別に抵触することかもしれません。しかし、50年近い昔、子どもで、医学も何もわからなかったわたし自身の原体験として、あえて、そのまま話させていただきました。
思い返すと、子どものときの我が家というのは ―― 朝から晩まで工場のモーターがうなりを上げて家が振動し気の休まる暇はない―― 障害者の姉が喚き散らし、頻繁に癲癇を起こす ―― そこで頭が変になった母が、朝から晩まで仏壇に向かって拝んでいる ―― 家のなかは散らかり放題 ―― 時折、近くの子どもが罵声を投げかけ、石を投げ、水を撒き、唾を吐く ―― これが、わたしの原風景です。いまから思い返すと、一つの地獄図であると思えます。
ところが小学校高学年になったころ、帰宅した母が家に駆け込みなり、わたしに右手を差し出しました。「握手しよう」というのです。表情は打って変わって、喜色満面。いままで見たこともないような笑みを浮かべています。母親が息子に握手を求める、おかしなことですが、手を差し出されたものですから、わたしは反射的に握手をしました。それから「どうしたの」と訊いたわけです。すると母は嬉しそうに「いまね、リーダーと握手してきたんだよ。おまえも、あたしと握手したから、リーダーの福運が伝わったんだよ。これで我が家は幸せになるんだ。もう、大丈夫だから」と、このように言うのでした。
いま考え直すと、先ほども申し上げましたが、根拠がなくても確信のある言葉に、人間というのは実に脆(もろ)いものなのです。わたしは45歳になるのですが、母の姿のなかで、あれほど確信に満ち溢れた姿というのは、あのとき以来見たことはありません。その母に、ころりと騙された……、というのは適切かどうかわかりませんが、ともかく、「ああ、リーダーというのはすごい人なんだ」と思い込んだわけです。
それから母は、いまでいう追っかけ、それもリーダーの追っかけのようになっていきます。来る日も来る日も「今日はあそこにリーダーがいらっしゃる、明日は、あそこにリーダーが来るらしい」そんな情報をつかむなり、ようやくと交通費に充てられるだけのわずかばかりの小銭を握りしめて、家を飛び出していくのでした。わたしのことも連れていくわけです。「学校なんか、どうでもよい。ともかく、リーダーに会うことができれば、福運も積まれる、頭も良くなる、幸せになる」というわけです。
小学校5年生のとき、わたしは学校を休まされ、我が家からは3時間近くもかかる高尾まで行くことになりました。駅に到着したのは昼時でした。小さな食堂に入ると、母と同じくリーダーの追っかけをしてやって来た知人がいました。美味しそうに名物のとろろ飯を食べていました。わたしは思わず、「あれ、食べたい」と言うと、母は「きょうはお金がないからね、リーダーと会えたら、福運がついてなんでもお腹いっぱい食べられるようになるからね」そう言いながらかけうどんを一つ頼み、わたしに食べさせたのでした。うどんをすすり出し、見ると母は水を飲んでいます。わたしが食べかけの丼を「もう、いらないよ」と言って、差し出すと、「もったいないじゃないの」と言い、汁も残さず、母は食べました。
食堂を出て、リーダーに会える場所に移動しました。通常は「リーダーに会える」といっても大勢の人のなかで、遠くから顔が見られ、声が聞こえる程度です。いつのものように路傍に立って、リーダーが来るのを待っていました。そこに、それこそ颯爽と「確信ある人」が歩いてくるわけです(笑)立派とは思わなかったのです。けれど、若々しくて魅力的なイメージに映じたことを覚えています。
リーダーがどんどん近づいてきます。通り過ぎるかと思ったら、わたしの前に立ち止まったのです。そして、「そう、しょっちゅうは会えないから握手してあげよう」と手を差し出すわけです。また握手の話になりますが(笑)それで握手をしてくれたわけです。子どものわたしにとって、母より一回り大きくて、そして柔らかく、温かい手であったことを覚えています。この握手に、母と同様、わたしは「やられてしまった」わけなのです(笑)
このリーダーとはじめて握手した場所は、たしかグループがいちばん最初に造った墓園であったと記憶しています。秋季であったか、春季であったか、いまとなっては、記憶は定かでありませんが、そこで合同慰霊祭を営む、そのようなことでした。いま考えるとおかしいと思うのは、合同慰霊祭とは、まあ大きな法事なわけですが、その導師、つまりお経を上げ題目を唱える中心者を、リーダーが行ったということです。たぶん、このことは、のちに、つい最近まで母体であった伝統教団の、僧侶の顰蹙を買い、騒動の原因の一つになったと記憶しています。
それはともかく、この墓園は丘陵を開いて造営された巨大なものでした。リーダーは、高台のところに仮設されたテントに入りました。それでも、たくさんのメンバーがその周りを囲んでいましたので、すぐに出てきて、皆に手を振り、盛んに応えていました。そのなかにわたしもいました。ほどなくして、先ほど、握手をしたわたしをリーダーは見つけます。手に大きなミカンを持っていました。わたしを一度、指さしたあと、「行くよ、未来の部隊長」、そう言うや、そのミカンを投げて寄越したのです。わたしが、しっかりとキャッチすると、いままで受けたこともない大歓声がわき上がったのです。部隊長というのは、当時のグループの、中間管理職のようなもので、特に青年メンバー、憧れの役職であったのです。
わたしはすっかり魅了されてしまったわけです。そして、それが自分の進む道はただ一つ、部隊長になることと思い込まされた瞬間でもあったわけです。さらにその日、カメラを持っていたものですから、1枚でもリーダーの写真を撮りたいと思ったのです。わたしが肩に掛けていたカメラを手に持ち直すと、意を察して、リーダーは呼び寄せてくれ、「いいよ」ということで、写真を撮らせてくれたのです。
グループは当時からたくさんの出版物を出していました。海外向けの月刊誌がありました。そこの記者が …… 記者といってもグループ・メンバーですが …… 取材に来ていて、わたしがリーダーを撮影しているシーンを、また、撮影していたのです。その写真が、この月刊誌に載りました。拍車をかけるようにリーダーから写真掲載の記念として、数珠が贈呈されることになります。握手しただけでも福運がつく、まして物品をもらうことほど、メンバーとして名誉なことはない、そんな風潮がグループのなかには渦巻いていました。
このようなことが起きるというのは非常に困ります(笑)
困るというのは、これが機縁になって、いままで、あばら屋の町工場、わたしの地獄図とも表現した我が家にあるわたしが、一躍、グループのなかで特別な存在として扱われるようになっていくからです。小学生であったわたしは、その後、母以上にグループにのめり込んでいくことになったわけです。このような経緯のなかで、わたしはグループの活動家に、どんどんとなっていってしまいました。
障害者家族の一員であったわたしは、それまで、非情な差別を受けてきたのです。しかし、巨大な、かつグループの活動家になっていく過程でそれを跳ね返すパワーを持つようになっていきます。歪曲肥大化した自我意識は、何者をも畏れないという蛮勇を容易に生み出していきました。それまで、差別をされていたわたしが、今度は力を持つようになった。この力は、お金でもなんでもなかったのです。グループという、当時、日本全国を席巻した宗教圧力団体……わたしは振り返ってそのように感じるのですが……、他宗を「邪宗」と呼んで憚らず、法律に抵触するような布教勧誘を強行し、悪口など言おうものなら、大挙、押し掛けて、徹底的に叩きつぶしてしまう過激集団の力です。その力を自分も得たわけなのです。それはまさに「確信」に満ち満ちたものでした。「布教活動、何が悪い」、それはそうかもしれないのです。しかし、問題はあったろうと思います。
こと、わたしの心中で起きた劇的な変化は「確信」、よく言えば、そうであったかもしれない。しかし、当時の自分の心象風景を振り返るとき、他宗を邪宗といい、グループ・メンバー以外は「不幸になり地獄に堕ちる存在」と言い切り、ただ自分たちだけが「正しく幸福を得る」と豪語してやまなかった思想信条に基づく自信満々の自分の心は、実は他を蔑(さげす)む、つまり「差別」する側の論理そのものに転落したものであったのでした。
1日中、仏壇の前で拝んでいる母が嫌でしようがなかった自分が中学に入るや、リーダーからもらった数珠を手に掛けて、誇らしげに2時間も拝み続けることになります。
拝むこと・読経それ自体が悪いことではないと思います。先ほども蓮月さんの読経を聞きながら、「きれいな、心休まるお声だな」と思って拝聴しておりました。比して、わたしのかつての拝むという行為は「願いを叶えずにはおかない、批判するものを許してはおかないという」呪詛にも相似たものであったのかもしれません。拝むほどに他を否定し、自分たちだけが正しいと自らを信じ込ませる祈りであった。そののめり込みのなかで、まったく気がつかないうちに、かつて差別されていた自分が、グループ以外を全否定し、見下す、言葉を換えれば「差別する」側になっていったのでした。
「宗教は差別の原因となり得る」、このように言うと宗教者の方々は眉を顰めるかもしれません。しかし、わたしは自分の経験から、カルトといわず宗教は、人を傷つけること、差別の原因となることがあると思うのです。そして、それは宗教団体の活動そのものが差別に基づく場合もあれば、教義そのものに差別が胚胎することもあることを、敢えて申し上げたいのです。この点を意識しない宗教は必ず人を傷つける、わたしはそのように思うからです。
もちろん反面、常に差別と闘う宗教者を、わたしは心から尊敬するものです。自分の信ずる宗教に「差別」という毒があれば、それをどのように薬に変えるように努力するのか、それこそ、宗教者に課せられた最大の難問であろうとわたしは考えます。ここでいう宗教者というのは、単に聖職者、指導者のみを指すものではありません。その指導に基づく信者一人ひとりにも当てはまります。つまり、わたし自身にも当てはまることです。
教義のもつ差別性についてお話したいと思います。
わたしには障害者の姉がいるわけです。「なんで、お姉ちゃんは障害者なんだろう?」、物心がついたときから、わたしは何度も何度も、こう考え続けてきたのです。たぶん、これには答えなどないのです。敗戦から復興への激動という社会情勢、両親の倫(みち)ならぬ結婚と駆け落ちなど、いろいろな複合的な背景はあったのだと思います。しかし、わたしは何一つ、それらを責める気にはなれません。まして、姉自身になんら科(とが)のあるはずもないわけです。種々の原因は考えられますが、しかし、「なんで障害者になったか」に答えなどあろうはずはありません。それなのに、グループは、いとも簡単に答えを提供してくれたものでした。
「あなたのお姉さんは、前世でリーダーに逆らったから障害者になったのだ」と、こうなるわけです。前世があるのかないのか知りませんし、前世にリーダーが“先生”だったとは、いまは思えないのですけれど(笑)
これはもちろん母親にも当てはめられるわけで、「お母さんが、あなたを産んで精神障害になったのは前世の罪、リーダーに逆らった結果」ということになります。
わたしが出生に当たって帝王切開で母親を傷つけたのも「過去世(前世)の行いがよくなかったからだ」というわけです。母親は、わたしが口答えでもしようものなら、衣服をめくり挙げて、帝王切開で負った傷口を見せ「生まれる前から親に傷を負わせるほどの親不孝はない。なんでリーダーの言うとおりに信心ができないの」とわたしに迫ったものでした。
この強迫観念ともいうべき教義的バックボバーンになっているのが「本尊誹謗の罪」ということです。つまり、本尊に背いた罰で現世に障害者になった。本尊をもっとも正しく信仰・実践し、仏に等しいのはリーダーだから、…… 現在も、過去も未来もという意味です …… そのリーダーに逆らったことによって、姉は障害者になり、母は精神障害になり、わたしは生まれながらに母を傷つけたというわけです。
たぶん、このような宗教教義のもつ差別性は、なにもグループに限ったことではないと思います。しかし、わたしの問題として、わたしが経験した宗教、グループの持つ差別性について話させていただきます。
姉と母を見て育った自分にとってもっとも怖いこと…、これは本当に障害者の皆様には申しわけないところなのですが、わたしにとってのいちばんの恐怖は自分が障害者になること、精神障害になることであったのです。この恐怖感を救う道として、実はグループは、わたしに、明快な解決の方途を与えてくれました。
「もし、あなたがお姉さんや、お母さんみたいになりたくなければ、しっかりと信心をすることだ」
わたしの根源的な恐怖、そして、差別という現実に、このような解釈が与えられたわけです。そして、その解釈に基づき、「では、どうすればよいのか」という進むべき道もしっかりと与えられたわけです。「心身障害者となったのは過去世の行いが悪かったからだ。精神障害者になったのは過去世の行いが悪かったからだ。親を傷つけて産まれてきたのは過去世の行いが悪かったからだ」という呪文のようなこじつけに、その解決策として、善いことをすれば善い結果となるという片方の極が示されるわけです。しかし、ここでいう善い行いとは、一所懸命に信心をすること、リーダーを信じること、グループの活動をすることであると「仕組まれている」のです。それが、いちばん善い行いであるというわけです。
一般の方であれば「何を言っているんだ!」と怒りも露にされることでしょう。しかし、このように徹底的に仕込まれたわたしは、このレトリックが完全な嘘であることには、どうしても気がつけなかったのです。教義がもつ障害者差別という一面を見抜くことなど、到底できることではありませんでした。
唯一、自分ができる選択は、一所懸命に信じ疑わずにひたすら全精力を宗教に注ぎ込むこと、それ以外ありませんでした。
グループも最近は、社会との融合性が意識され、露骨な差別は、なりをひそめています。しかし、区別は残っているわけです。どんな区別かというと、信じる者と信じない者を区別するということです。この区別はともすると偏見となり、差別の要因になるでしょう。区別より極端な差別は、時として攻撃を伴うというのがわたしの経験則です。そして、この攻撃は区別した他者への憎悪を基盤にしていると感じてきました。
自分と自分の家族を振り返るとき、グループ・メンバーであったわたしは、いつもなにかを「憎悪させられていた」ことが思い起こされます。グループの草創期、他宗を「邪宗」と憎悪し、結党されるや他党を憎悪し、メディアで騒がれればマスコミを憎悪し、元の母体グループとその最高指導者を憎悪し、グループの敵、リーダーの敵と見なし続けてきたわけです。グループを「笑うファシズム」と評した人がいたわけですが、あの底抜けのパワー、異常な笑い声、怒涛のような題目を唱える声、人々の行動の源泉はなんであったのだろうと思うと、わたしは、どうしても「憎悪」という一点に帰着せざるを得ないのです。他者憎悪に基づく強烈なパワー、それを世界平和などという言葉に包み、巧みにグループは日本の支配を確実なものにしたのです。他者憎悪という隠され続けている現実が看過されている、そう感じるわけです。
自分たちと考えが違うものであれば叩き潰してもよい、自分たちの不利益になるものであれば、人権侵害に抵触する批判を繰り返してもよい、こんな信じられない理屈がいまも、ここ日本には潜行している事実を、日本人の多くは気がつかないでいるのだと思います。
「本当の支配とは、支配されている人間が支配されていると意識しないことである」と言ったのは誰であったでしょうか。日本はまさにこのような意識されない支配下にあるということをわたしは本日のお話の結論として申し上げたいと思います。
最後に、一人でできるグループ撃退法をお話しようと思います。ただし、これはグループ・メンバー撃退法ではありません。グループの撃退法です。メンバーである個人は、ある意味で被害者です。いつしか気がつく日が来るかもしれません。そのとき、脱会で道に迷うとき、手を差し伸べてあげられるのは、その人と善意で向かい合った真剣な一人であろうかと思います。たとえ相手が現役のメンバーであっても、相手と同じ土壌、すなわち「差別」「区別」「偏見」「憎悪」で接しないこと、それが未来の救済につながるとわたしは考えています。その前提で、これから申し上げる五つのポイントを覚えてください。
一つめ。勧誘を受けたとき、「相手に信念を語らせないこと」です。メンバーが自分自身に酔い思い込んでしまうこと、信念を強固にするのは誰かに信念を語るという経験に基づきます。ですから、相手が宗教の話をしようとしても、取り合わないこと、聞かないこと、語らないことです。
二つめ。「多段階説得法に引っかからないこと」です。グループに限らず、勧誘には小さな承諾の積み重ねによって目的を達成していく技術が使われます。これを多段階説得法といいます。たとえば、最初は挨拶を交わすだけ、それが話すようになる、一緒にお茶を飲んだりすると次々と段階を踏んでいきます。一般の人間関係でも、この段階は同じなのですが、違うことは勧誘の場合、必ずそれを手段として利用していることです。「挨拶を交わしたことがある相手だから」「一緒にお茶を飲んだ相手だから」と気を許すとき、「選挙なんだけれど、誰々をお願い」「1カ月でいいんだけれど、新聞、取ってくれないかな」「友達の集まりがあるんだけれど来ない?」と小さな承諾を順々に取りつけられて、気がついたときには投票し、グループのシンパのようになり、ついには入会書に署名している羽目となるわけです。
わたしは投票依頼をしていたときに、いつも上の人間から言われていたことは「投票依頼というのは勧誘の第一歩なのだ。勧誘の精神でやって来い」ということでした。ここでも多段階説得法は生きているわけです。つまり、党に投票を依頼されるとき、すでに勧誘は始まっているということです。
かといって、「挨拶を交わさず無視しろ」というのではないのです。人間関係と宗教勧誘をしっかり見極め、人間関係は大事にするけれど、それとは分けて、勧誘に至るいささかの小さな承諾にも応じないように注意することと申し上げているわけです。
三つめ。なにかを依頼されたときは「明るく爽やかに、断固拒否すること」です。
竹中直人というわたしが好きな俳優がいるのですが、彼のデビュー当事の十八番(おはこ)芸は「笑いながら怒る」というものでした。ああいう感じが欲しいですね(笑)本当は怒っていると相手に伝えながら、笑顔で爽やかに、けれど、拒否ということです。なんら猶予も、議論も必要ありません。メンバーは、グループに操作されて頼み事をしてきているわけです。その頼み事は一見、友人・知人からのものに思えますが、実はそれはグループの頼み事です。ここがポイントです。ですから、断ることに躊躇する理由はないわけです。
四つめ。「人間関係と宗教の別を徹底する」「宗教と政治の別を徹底する」ことです。「私はあなたのことは嫌いではない。あなたは、いい人であると思う。だけれど、グループには協力しない。宗教・政治の話と、人間関係とは別だ。話さないでくれ」という姿勢を徹底することです。
「会合に来ない?」「行かない」。「新聞、取ってくれない」「取れない」。「投票してくれない?」「しない」。明るく爽やかに断りながら、「でも、あなたのことは嫌いではないよ」ということをしっかりと相手に伝えることです。人間関係と勧誘をしっかりと分けて対処することです。
五つめ。以上の四つの方法を採っていることを相手に覚(さと)られないこと、つまり、タネを明かさないことです(笑)
繰り返します。一つ、相手に信念を語らせないこと。二つ、多段階説得法に引っかからないこと。三つ、明るく爽やかに断固拒否。四つ、人間関係と宗教・政治を分けて対処する。五つ、以上の四つのタネを明かさないこと。これは多分、グループのみならず、他の勧誘にも通用することであろうかと思います。
やや余談ですが、ある識者の方が「カルト問題ではグループが抑止力になっているから役に立つところもある」、こう言ったのです。しかし、これは大きな誤解です。彼等が抑止力となるのは自分たちの利益が守られるという大前提に基づくことに限られているからです。「カルトの抑止力になることは、つまり、自分たちはカルトではない」という手前勝手な言い分を認めることになります。もしグループと上手くやれる人があれば、…… グループ・メンバーとではなく、グループと、です …… つまり、その人は既に相手の術中に落ちているに過ぎないことを認識すべきです。
わたしはグループにいるときに幸せであったと思っていましたが、それは完全な幻想でした。やめたあと、長い、本当に長い道のりのなかで、一度たりとも、しかし、親が自分を理解してくれることはありませんでした。脱会後のわたしに不幸があったとすれば、グループの価値観から脱却できない親の無理解によってもたらされた、この上ない孤独感との闘いが、それに当たります。
脱会前後に襲った強烈な神経障害、それが宗教と親の養育による過ちによってもたらされた心理的な葛藤に原因があるとは専門家の言でした。しかし、当の親は、そのわたしの不幸と苦しみに気づくことなく、自分のことばかり言い続けていました。
二世信者の不幸とは、本来、脱会後の支援に当たってくれるべき親が、むしろ、反対に救済の最大の足かせとなって、いつまでもその束縛を解いてくれないことにあります。わたしたちにとって、帰るべき、安心すべき親元など、存在しませんでした。あるのは、先の見えない葛藤と手探りの自由を獲得する模索という自律の入口だけでした。
そして結局は、50年近くもグループの呪縛を完全に切ることのできなかった親こそ、わたしがもっとも困難を感じながらも、しかも支援しなければならない一人であったのです。
実は、その意味において、宗教によってもたらされたわたしの不幸は、いまも現在進行形なのです。失われてしまった多くの人生の時間と可能性は、二度と取り返すことも、やり直すこともできません。わたしと同様の不幸を繰り返す人が一人でも減ってくれることを祈り、わたしは宗教によって傷ついた人々と、共に歩んでいくことを決めました。
わたしのささやかな体験から、グループ対処法にまで話は及びました。ご静聴いただきまして、誠に有り難うございました。