『聖徳太子−地球的視点から』中村元
東京書籍 1990年9月28日第1刷
抜き書き
12非常に古い時代から、すでに日本の国は世界の人間の動きのなかに巻き込まれていて、その動きのなかで成長し、発展したものなのである。日本人が日本という独自の国を意識し、国民生活を形成するということは、世界史的な動きにおいてのみ可能であったのである。しばしば考えられるように、孤立した民族としてそのようなことを実現したのではない。
16「招提」とはパーリ語などでチャートゥッディサ(catudisa)という語の音を写しただけであるが、チャートゥッディサとは(catu=4つの意)とディサー(方角)という二語から形成された語で、「四方の」「四方の人」「万人への(愛情)」という意味である。……「四方の人」をドイツの学者は「世界市民」(Welbuger)と訳している。まさにコスモポリタンなのである。四方の人、コスモポリタンとしての理想を、鑑真和上は身をもって実践した。
16われは万人の友である。万人の仲間である。一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみのこころを修して、常に無傷害を楽しむ。『テーラ・ガータ』
17現実には極東の狭い島国で暮らしていたけれども、かれらの主観的意識の面においては、コスモポリタンであろうと望んでいた。
121サマヴァーヤというのは、ヴァイシェーシカ哲学の術語で、「和合」と漢訳する。属性とか運動が、一つの実体に内在している、従属している――英語ではinherenceというが、その関係をヴァイシェーシカ哲学では「和合」という。……もともとインドでは、サマヴァーヤという言葉が使われたのは「仲良くする」という意味である。それが元の意味なのである。それがたまたま哲学のほうに取り入れられて、少し専門的な意味に使われるようになったのがヴァイシェーシカ哲学のサマヴァーヤなのである。だから、この言葉を玄奘三蔵は、「勝宗十句議論(しょうしゅうじっくぎろん)の中で、和合と訳している。
122この和の思想が、憲法十七条全体を通じて強調されている根本のものである。「和」が説かれているのであって、単なる従順ではない。ことを論じて事理を通ぜしめる。議論そのものが、互いに会話というか、その気分の中で行われる。
こういう思想がほかの国にあったかどうか。仏教以前の中国ではどう扱っていたか、わたくしはよく知らないが、ただ『孟子』の中に似たような文言がある。『孟子』の場合には、天下を統治するについていっているが、聖徳太子の場合には、和の精神をあらゆる人間関係に生かそうとした、ということがいえるであろう。
123和の観念が、儒教から影響を受けたものであるという解釈もなされており、『論語』に「和するを貴しとなす」という句がある。ただ、『論語』のその個所では、主題が礼であり、和ではない。ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理としての和を唱えている。つまり太子が、礼とは無関係に、真っ先に和を原理として掲げている。これは実に、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表したものだといえる。
128聖徳太子における和の観念は、前述のように、儒教から受けたものであるという解釈もなされている。しかし『論語』では、「礼之用、和為貴」(礼の用は、和を貴しとなす)となっていて、主題は「礼」であり、「和」ではない。したがって、ここに太子が、礼と無関係に真っ先に和を原理として掲げていることは、実は仏教の慈悲の立場を表しているものだともいえるであろう。これはもとは儒教で使われた語であったとしても、仏教における原理的なものを示すと考えられたので、シナの仏教徒がこの「和」」という字を用いて訳したのを、聖徳太子がとり上げて仏教的な精神で生かしたわけなのであろう。
132総じて、古来日本人のあいだでは寛容・宥和の精神が顕著であるが、その成立しうる論理的根拠はいかなるものであろうか。日本人のあいだには現象界のすべてのものにその絶対的意義を認めようとする思惟方法が働いているが、それによるならば、人間の現実世界におけるすべての思想にいちおうはその存在意義を認めることになる。そうすれば、それらすべてに対して寛容・宥和の精神をもって対することになる。
145普遍的宗教を政治に生かそうという精神は、民衆に対して愛情をもって接する。アショーカ王は「いっさいの人民はみなわが子である」という。聖徳太子は憲法で一般人民の福祉を重んずべき道理を力説している。
148アショーカ王と聖徳太子の人道主義的活動は、非常によく似ているので、驚くべきことである。あるいは聖徳太子が、アショーカ王の精神に激発されたのかどうか、ということが学問的に問題になるが、しかし、はたして太子がアショーカ王に関するものを読んでいたかどうか、これはよくわからない。私は、そうではなくて、やはり、仏教の精神を現実に具現化しようとすると、おのずから方策、道が現れてくる。そうすれば、互いに相談しあったものでもなく、影響を受けたものではないけれど、相似た活動が展開されたということは、ごく自然であると理解している。
150外国文化との交渉が行われるようになって、日本人はシナの宗教を知るが、その際、多少は老荘思想の影響は受けたけれども、しかしとくに儒教を選び取った。すなわち、種々多様なシナの思想のうちで、とくに具体的な人間結合関係における実践の仕方を教える儒教を採用し、摂取したのである。老荘思想は、ややもすれば個別的な人間結合関係から遁れ出て、山林にこもっておのれの一人の静安なる生活を求めるという隠遁主義に傾く傾向があるので、多くの日本人はこのような傾向を好まなかったのである。ところが、儒教はもともと現世的な教説であり、はたしてそれを宗教と呼びうるかどうかが問題とされているのであって、もっぱら人間結合関係に即しての行動のしかたを規定しているから、この点に関するかぎりは、儒教の移入に当たって何等の摩擦をも生じなかった。
154聖徳太子はとくに社会的な奉仕を強調した。「勝鬘経」に、「財を捨すとは……一切衆生の殊勝の供養を得るとなり」とあるのに対して、「語は少しく倒せり。まさに殊勝の一切衆生を供養することを得というべし」と説明する。つまり、教典の文句を恣意的に書きかえて、奉仕精神を力説しているのである。
155布施(施し与えること)ということは仏教の強調する重要な徳目である。インド人はこれを徹底的に実行すべきであると考えた。多数の仏教教典のなかには、財産のみならず国・城・妻子さえも、いや、自分の身体さえも捨てて他の人(あるいは生きもの)に与えてしまうことが称揚されている。そのような捨離・無一物の生活を、インド人は修行者の理想として描いていた。
168たとい帝王や執政者が実際に書いたものであったとしても、人間の真実をとらえていなければ、それは価値の乏しいものである。反対に無名の庶民が書いたものであっても、その諸論が正しくて人間の事実を把捉しているならば、その書は尊重されるべきである。
214人々を救ったという点では、西洋では、聖フランチェスコが有名であるが、社会性という点では忍性律師のほうがはるかに大がかりであり、全国に広がっている。こういう、人びとをいたわり愛するという精神の活動は、古代西洋にはなかった。古代西洋の社会は奴隷経済制であったから、自由民と奴隷との区別がはっきりしている。だから奴隷のための施設などをつくる必要がないのである。ストアの哲人は愛を説いたけれども、それを具現しなかった。ようやくキリスト教によって、コンスタンチヌス帝の改宗とともに現れるようになったが、それは非常に遅い。
218日本の過去の歴史には、いろいろなことがあったであろうが、それだけではないのであって、祖先からの尊い精神というものがずっと受け継がれている。「和をもって貴しとなす」ということは日本人であれば、だれでも知っているし、理解することである。けれども、西洋人には理解しにくい。例えば正と邪があって、正が邪をたたけばいいというなら、正は邪をたたくために、原子爆弾を使ってもいいということになる。
ところが今日のように、地球が一つの狭い地域になり、この狭い地球の上で互いに仲よく暮らしましょうということを、みなが理解するようになった。そうすると西洋人でも、だんだん「和を貴しとなす」という、この精神を実践せざるをえなくなってきている。


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