雑集

 『新・士道論』俵木浩太郎
項目抜き書き
68軍人勅論夫兵馬の大権は朕が統(す)ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(みずから)之を攪(と)り肯て臣下に委ねるべきものにあらず子々孫々に至るまで篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再(ふたたび)中世以降の如き失体なからんことを望むなり
101文武一体君は仁と礼とをもって臣下をさしつかふ道とす。仁は義理にしたがひて人を愛する徳なり。礼はくらゐくらゐの道理にしたがひて、人をうやまひあなごらざる徳なり。(『中江藤樹』日本思想体系29 岩波書店 1974年、第1刷57頁)
188幕末武士の有様我等或時福沢先生に謁したるに「足下は江戸の侍の子とや。予は旗本などは公卿の様なものなりと思ひ居たり」と言はれたり。一語、冷ややかなること氷の如し。我等は慚愧に堪えざりき。剣を以て天下を取りし三河武士。その三河武士の建てし旧き、長き藩閥の使用人たる江戸侍は多くは不正の富を以て其屋を潤ほし、其身を肥やしたり。(『山路愛山集(二)』民友社思想文学叢書第三巻 三一書房 1985年、第1版第1刷428頁)
191成り上がり批判萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。(『西郷南洲遺訓』山田済斎編 岩波文庫 1985年、第26冊6頁)
192保安条例『保安条例』は歴史的事実です。これは伊藤内閣にあって内相の職にあった山縣有朋が下僚、清浦奎吾、三島通庸の逡巡を押しきって断行した策でした。
192山縣有朋この人物が近代日本の軍事、政治、教育、思想といった各方面で果たした重要な役割は、ここでは容易に語りつくしえないのですが、武士ならびにその精神としての武士道に理論的にも実践的にも止めを刺した主要人物も、また、彼であったのです。
彼は長州藩奇兵隊の経験に学び、近代日本の軍事は旧来のような武士階級の専権事項ではなく、徴兵制による国民皆兵主義をとることを主張し、それを施策として実現いたしました。その意味では、彼の軍事思想のうちには明らかに反武士道的要素が見てとれます。このことは同時に、特権的身分であった武士の特権的指導理念と考えられた限りでの武士道を否定することにつながります。そうした武士道に代えて、彼は天皇制のもとでの国民兵のもつべき理念的指針を示すことになります。それが明治十五年に発布された『軍事勅論』です。
『徳富蘆花集』 明治文学全集42 筑摩書房 昭和41年、62〜67頁(小説『黒潮』) 伊藤博文の醜態を書く小説


 『西国巡拝記』杉本苑子

坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。

三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである。


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