仏典訓読の問題点

 『勧持品』二十行の偈の訓読の疑問

    法華経の菩薩の御相を拝す


 妙法蓮華経の『勧持品』のなかに
  為斯所軽言 汝等皆是仏
  如此軽慢言 皆当忍受之
という一節がある。平楽寺版の『真訓両読妙法蓮華経並開結』に拠れば、ここは
  斯れに軽しめて 汝等は皆是仏なりと言われん
  此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし
と訓読が施されている。しかし、「為斯所軽言 汝等皆是仏」を「斯れに軽しめて 汝等は皆是仏なりと言われん」とするのは如何なものであろうか。
 因みに他書の訓読に当たってみると、『国訳大蔵経』では、
  斯に軽めて、「汝等は皆是仏なり」と言はれん
とあり、また、岩波文庫版『法華経』では
  斯れのために軽んぜられて「汝等は皆、仏なり」と言われんも
とある。これらの訓読の底本となっているのは何であるのか、今のところ理解しかねるが概ねその訓読を大同小異、言い換えているものであると推測される。
 しかし、私はこの訓読に甚だ疑問を感じるのである。それぞれの訓読の意味するところは「軽んじて、『汝等は仏である』と言われる」ということであろうが、いったい、これはどのような意味なのであろうか。「軽んじて外道であると言われる」とするのであれば、その前節の「説外道論議」と通じる。けれども、軽んじて「仏である」というのである。
(仮にここで考証の便宜にこの部分をA句からD句と呼称するものとする)
 抑も「A斯所軽言 B汝等皆是仏 C如此軽慢言 D皆当忍受之」のD句をよくよく眺めると、A句・C句、B句・D句でそれぞれの意味合いを異にしていることに気付く。さらにA句・B句とC句・D句が対句となっていることにも注意が引かれる。これを図示すれば、
  為斯所軽言 汝等皆是仏
 (〜斯〜〜言「〜〜〜〜〜」)
  如此軽慢言 皆当忍受之
 (〜此〜〜言「〜〜〜〜〜」)
となる。A句の二文字目の「斯」、C句の二文字目の「此」は対句であるための使い分けであろうが、ともに意味するところは「かれ・これ」であることは疑う余地がない。しかし、A句とC句では指しているものが異なっている。果たして通常の訓読ではA句の「斯」は菩薩を詰(なじ)る比丘を指すことは、その前の件から明瞭である。そして、C句の「此」はその比丘の言った軽慢の言葉を指すことが判る。
 では「言」、すなわち、A句五文字目、C句の五文字目は、どうであろうか。通常の訓読に拠ればA句のそれは「言われん」とされ、C句のそれは「言(ことば)」として根本的に用法が相違している。つまり、A句では動詞とされるのに対し、C句では名詞とされているのである。
 先にも指摘したとおり、A句・B句とC句・D句は対句の形を採っている。それなのに同じ位置に配される「言」がA句とC句では、かくも相違しているのはいかにも不自然ではないのか。
 私はこの両方の「言」は、ともに菩薩が「言う」ことを意味していると思う。ではなにを「言う」のかといえば、それは、すなわち、B句・D句である。しかし、伝来の訓読ではB句を悪比丘の誹謗中傷の言とし、D句を菩薩の言としているところが気に掛かる。これは本当に正しいのであろうか。
 B句を悪比丘の誹謗の言とするから「仏なり言われん」という不可解な発言を構成することになる。しかし、私はこの「汝等皆是仏」は菩薩の発言であると考えるものである。すなわち、
  斯れに軽じられたるに「汝等は皆是仏なり」と【言】う
とすべきであると信じる。そして、C句の「言」も対句である故に「言う」という動詞的用法であり、
  此の如く軽慢されるに「皆当に此を忍ぶべし」と【言】う
とすべきではないのか。
 悪比丘からの法難に遭う菩薩衆が、それでもその悪比丘の心中の仏性を信じ、如何に軽んじられようと「汝等は皆仏なり」と言い、さらに堪忍して「皆当に此を忍べし」と言われることを示した箇所であると拝するのである。
 以上のように拝するとき、『序品』の
  増上慢人 悪罵捶打
  皆悉能忍 以求仏道
の菩薩の堪忍の境地に通じ、さらにかの有名な『不軽菩薩品』の二十四文字の法華経の
  我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。
の句、また、
  我不軽汝 汝等行道 皆当作仏
という仏性礼拝の言句と一致する。法華一経に登場する菩薩は相手が如何に迫害しようと、少しもやり返すこともなく言い返すこともなく、瞋らず軽んぜず、柔和にして、相手の仏性を信じ、その悪人を礼拝し、堪忍する尊い御相で一貫されている。その脈絡から考えても二十行の偈の該当の四句は
  斯れに軽んじられ為るに「汝は皆是仏なり」と言い
  此の如く軽慢されるに「皆当に忍ぶべし」と言う
と、菩薩の言葉として読まない限り、その菩薩の尊い御相は明瞭とならない。
 以上、『勧持品』の二十行の偈の四句に関して疑問を呈し、自分なりの解答を披瀝してみた。しかしながら、この考証は法華経の菩薩の尊敬を明瞭にすること以外、何ら意図のあるものではない。

いわたちせいごう


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