書庫を整理していたところ、20年以上も前に購入したパンフレットを発見

読み返すと、差別に抵触する不適切な用語の使用、正邪の立て分けから他宗派の一方的な謗法視、また、明治以降の仏教学・考古学その他の科学的な考証が一切加味されていない点などが悔やまれます。ただ、それらの点をのぞけば、近代日本の法華経系仏教集団全般に投じた波紋は計り知れないものがあり、当時においては重要な警醒を与えた人物であったと感じます。その意味から、全文をここに掲載しました。併せて『現代諸学と仏教』を参照されることをお薦めいたします。

なお、スキャナーのOCR機能を使用して読みとったために誤字が残っているかも知れません。その点をご留意のうえ、参考に供されたいと思います。

清貧、孤高、そして、生涯にわたり学究の仁であった故人の冥福をお祈りするものです。


 

shori六師義は正埋なのでしょうか

知らなかった・では済まされません

石 田 次 男

 

宗祖日蓮大聖人の仰せには「総じて予が弟子等は我が如く正理(ニャーヤ、ユクティ)を修行し給え」(十八円満抄)とございます。所が私達はこの26年間、教主大聖人の仰せにも拘らず・釈尊諸仏の御本意に背いたとんでもない邪理・迷理・妄理を修行して来たのではなかったでしょうか。誰にもせよ・勿論・自覚し悪意でした事ではありますまいが、この邪迷妄理はそれ丈に根深くて・強く強く我が身に滲込んでしまっているのではないでしょうか。人に教え込まれた為であります。

 

歴史を顧みれば、法然・弘法等の邪師開祖達も、邪智・慢心に満ちて居たにもせよ「自分の法はとんでもない邪義・悪義・インチキだが、今は時代や衆生の機根が悪いのだから・これで間に合せておけ」と自覚し配慮して彼等の邪悪義を弘め始めたのではなかった筈であります。こういう悪意から称名念仏・眞言等の各宗を立宗したのではない筈であります。つまり此等は、自義を「正しい」(正理である)と盲信した元品無明の所作ではなかったのでしょうか。

 

それでも、一切経に照らしてみると・教主釈尊の御正意に明確に違背している為に、日蓮大聖人によって・念仏無間・眞言亡国・と〈正理(ニャーヤ)に拠る〉正法正義の側から一大破折を蒙りました。「諸仏内証の肉眼を経と為す・経は破迷の義に在り」(十八円満抄)……この〈経の正理〉を重んずるが故であります。今はこの筋道を我が身に当てて能く能く洞察してみるべきであります。故意・悪意は無くても、念仏・眞言を教え込まれた儘に信受すれば・念仏無間は免れず・眞言亡国は避け様が有りません。妙法と雖も邪迷妄理の邪解を教え込まれた儘に納受信行すれば・因謗堕悪・千劫堕獄であります。敬う様であっても国さえ亡びるのであります。

 

私達は入信の時、御授戒の場に臨んで「今身より仏身に至る迄・爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて・正直に法華本門文底の正法正師の正義を信じ奉るや否や」と問われ、心から「信じ奉るべし」と答え奉って入信した筈であります。この謹答は・授戒師の御僧侶に申上げたのではなくて・御宝前に於いて御本仏宗祖日運大聖人へ申し上げた謹答でした。以来、誰にもせよ、爾前迹門の邪義ははっきり意識して排除して正宗の信仰を持って来た筈であります。然し、爾前迹門の邪義は排したとは言え、若しも・それ以前の問題である〈外道の邪法邪師の邪義〉は捨てていなかった・としたらどうでしょうか。

 

外道邪義は爾前以前の問題(内外相対の問題)で、授戒問答の言表の中に・言語・文字・としては含まれてはいなくても、言意・文意は・当然・確実に、授戒の問い・の中に含まれている所のものであります。それにも拘らず・長い間・知らない儘に・強力な指導者に編されてこの〈外道義〉を信じ込んで来た・としたらどうでしょうか。この信仰心は・日蓮大聖人始め三世一切諸仏に背いた〈大謗法の信仰心〉ではないのでしょうか。「知らなかった・……」では済まされない事であります。どなたにも・ここを能く能く自省反省して頂きたいのであります。何故ならば、これでは〈からくり〉に於いて・法然・弘法・及びその宗徒と全く同様だからであります。

七百年前の鎌倉時代には、我が国には、外道義(六師外道思想の法義)そのものが存在していませんでした。

 

眞言宗開祖の弘法でさえも仏説の〈縁起・無自性〉を承認し、自らの著作に〈無自性(無本質)〉を書留めて居りました。つまり・弘法でさえも・表向きの辺では・外道義には騙されてはいなかったのであります。今から百二十余年前・江戸時代・幕未迄は我が国に〈外道義〉そのものが社会に存在していませんでした。

 

外道義の問題は昔のインドの問題であって、一千八百年前の正法時代迄に、釈尊と竜樹との手によって、内外相対論として、完全に破折され尽くして解決していたからであります。この事は『阿含部諸経』や『大槃若経』や「中論」等に依って明白であります。その後、この外道義は姿を変えて法相宗の中に・法相義の中に忍込んで復活して漢土に出現したとはいえ、我国に渡来するや・伝教大師に依って完膚無き迄に破られ追放された所のものであります。即ち、権実論争(天台宗伝教大師vs法相宗徳一法師)がこれであり、『法華秀句』で結末を見た所のものであります。そしてこれらは末法以前・像法時代の事でありました。

 

日蓮大聖人の御書(御法門)は、五重相対の内、権実・本迹・種脱の三相対に拠って成立して居ります。この内、権実・本迹は天台大師からの引継ぎであり、宗祖独自の御法門は〈種脱相対〉の唯一つだけであります。御書には、内外と大小とは、但・名目だけが史実と共に示されて、その論証的内実は示されてはおりません。というのは、間題は既に遙か昔の正法時代に解決され終えて、もう・末法の問題ではなくなっていたからであります。時機不想応な問題だったからであります。

 

所が歴史は思掛けない転回を示しました。何と、六師外道の法門が現代に復活したのであります。と言うのは、明治時代になって、文明開化の波に乗って、西欧から・六師法門その儘のギリシャ哲学――両者の骨格は全く同じ――が日本へ移入されて、行渡った学校教育を通じて・日本人の頭の中へ滲込んでしまったからであります。

 

我々正宗信徒の頭の中へも勿論滲込んでしまったのであります。私達は・この一大事態に・果たして正しく気付いて居たでしょうか。気付いて用心して来たのでしょうか。残念な事に・そして・悲しい事に・答は「ノー」です。

 

私が知る限り、ほんの1・2人の他は、全ての人々が、ギリシャ哲学つまり装いを変えた六師外道の思想の儘・信仰を続けて居ります。つまり、内正外邪・内勝外劣なのに、驚いた事に〈内外一致〉の信心をして居るのです。法門の解釈(理解)も〈内外一致の解釈〉をして平然として居るのです。講義・講演・皆然りです。口先では・外道は正しく因果を説かないから駄目だ・と言いながら、妙法の観心・文底迄・全部を六師義で解釈して平然として居るのです。〈種外一致〉なのです。〈本迹一致〉所の騒ぎではありません。外道法と文底下種法門とが一致する妙法・など、御書全編・一体何処に・言半句でも・在るものでしょうか。断じて無い事であります。

且って昔、宗祖門下の五老僧達は〈本迹一致〉の故に御開山日興上人より破門されました。神詣でを許したり・天台沙門と名乗ったり・造仏義を懐いたり・等々も皆この為でした。実に〈本迹一致思想〉以外に破門の理由は全く無かったのであります。興尊御遣誡に曰く「本迹一致の修行を致す者は獅子身中の虫と心得可き事」と。それなのに、本迹一致よりも尚悪い〈内外一致の修行を致す者〉は〈獅子身中の虫〉ではないのでしょうか。宗開両祖から〈破門〉を給わって当然な大非法・大謗法ではないのでしょうか。

 

内外一致の指導者に率いられて・内外一致を教えられた儘に信じて・多年に亘って内外一致の信行を続けて……これでは積功(因行)累徳(行果)の功徳も成せず・大小の願業も成就せず・大小の利益も生ずるに由無く・一生成仏も叶う事無く、広宣流布どころか、こうした人々の組織集団は単なる〈仏罰製造株式会社〉でしかないのではありませんか。冷静に身の周りを御覧下さい、現に、余りにも罰ばかりが多発しては居りませんか。人も我れも……です。然もこれらは〈華報〉に過ぎないのです。「是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげ(歎)かはしからんずらん」(佐渡御書)を能く能く拝すべきでありましょう。

 

可怪しい・と気付いて〈正信覚醒〉運動をする人々も随分拙宅へ訪ねて参られました。正信に目覚めさせる運動……これ自体は正しいのですから結構な事であります。ですが、話を聞いてその思想を問い尋ね返してみると、驚く事に六師思想その儘なのです。これでは、法然と弘法とが互に非難し合う様なもので、正信覚醒運動が正信覚醒運動になりません。自行にもならず・化他行にもならず・世の中の為にもなりません。「正信覚醒や反現学会も結構ですが・その前にまず自分の思想を直しなさい」と宥めて反省を求めるのに骨が折れます。これ程・万人に取って六師思想の根は深いのです。内外一致は大流行しているのです。誠に悲しい事です。怖るべき事です。

 

我々は何時も宗教の正邪を問題にして人々にも話します。つまり化他行の際の中心課題は〈正邪〉です。我々の宗旨は大聖人の仰せ通りに〈謗法厳誡の宗〉ですから、自行に於ても〈正義・邪義〉の判別が中心的心得になって居ります。これからして・当然の事ながら・正邪は絶対に曖昧には出来ません。それなのに〈内外一致〉では・仏法の・三大秘法の・〈正邪〉は完全に破棄されてしまいます。内外一致・大小一致・権実一致・本迹一致・種脱一致……内外一致になれば五重相対は〈勝劣〉ではなくなって、種脱一致迄一貫してしまう事に成らざるを得ません。これでは・宗教は何でも同じ・という俗論になってしまいます。正邪は破棄されます。してみると、この内外一致以上の大悪義が世の中に又と有るものでしょうか。

 

ギリシャ哲学という全く新しい装いにせよ、六師義はどう言い繕っても六師義です。では一体・どういう人が内外一致の六師義を弘めるのでしょうか。又・内外一致の六師義とは一体どんな義なのでしょうか。六師の事は余りにも遠い昔の事なので、我々は,さっぱり・何も知らないのではないでしょうか。でも、次の史実は御存知の筈です。提婆達多を始めとする六師外道達が釈尊を大いに追害した……と。釈尊と六師外道との事は、六師側が釈尊を横しまに追害して、為に仏は九横の大難をお受けになられました。六師の法門を釈尊が完膚無き迄に破折した為であります。

 

開目抄を拝見致しますと「是の諸の悪人(六師義の人)……如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾・無義の語を安置す・……是れ魔の伴侶なり」(『涅槃経』)・「若し智慧無きは増上慢を起こし己れ仏に均(ひと)しと謂う」(『止観』)と経・釈を挙げられ、六師の思想及び振舞いが如何に仏法を破壊するか・それが如何なる者であるか・を端的に教えて居られます。仏法を形の上では奉じて・指導者の側に身を置いて・仏と均しいかの如くに見せ掛けて・この破法を行ずるのであります。一例は法然・弘法・等の如く、今でもこの徒輩は幅を効かせて現存するのであります。

 

釈尊は、六師は仏滅後の将来に又出て来る・と予言を残して居られます。「当来の世・仮りに袈裟を被(き)て我が法の中に於いて出家学道し懶惰懈怠にして此等の方等契経(大乗経)を誹謗すること有らん、当に知るべし此等は皆是れ今日(仏在世の意)の諸の異道の輩(六師達)なり」と。ですから六師の徒輩は「(法然・大日・等)は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(佐渡御書)と・宗祖御在世にも出て参りましたし、それから七百年後の昭和の只今へ出て来ても、一向に不思議とは申せません。

 

兎に角、形を変え・姿を変えて、六師思想の薫習種子(過去世の因業)の重い者が・又々後の世つまり今へ生まれ出ては〈同じ思想〉を〈同じ行動〉で広めるのです。『涅槃経』に「是の諸の悪人……如未の深密の要義(正理の正義)を滅除して(六師義の様な)世間の荘厳の文飾(哲学や科学などの俗諦)無義の語(二者択一の論理とか推埋推論つまり比量など)を安置す……是れ魔の伴侶なり」と示されている通りです。

 

こういう人は「若し智慧(法智・仏智)無きは増上慢を起こし己れ仏に均(ひと)しと謂」っているからするのです。智慧が無い・と言うのは、法智・仏智が無いのでして、大旨(おおむね)才智は回り・世智や機略には長(た)けて・人の上に立って弁説爽かなのです。そうでなければ「世間の無義の語を安置」する事さえも出来ないのです。「世間の荘厳の文飾」を施す――判り易い現代的解択・などと言うのがこれです――事は出来ないのです。法然・弘法等がそうだったではありませんか。今でも道理は同じです。妙法の宗内に於てさえも、無明覆障の才人がこれをするのです。ですから獅子身中の虫なのです。

 

無明は我見を生み、我見は諸見を生み、諸見は執著を生み、我執の執著は我慢を生み、我慢は我愛を生み、我愛は我欲・貪慾を生みます。無明から事起こって〈見→著→慢→愛→貪〉という訳です。「我見は諸見の本たり」(『止観』)です。我見・我執は必然に我慢を招くのです。御義口伝に御教示の様に「在俗は矜高にして多く我慢を起こす……疵(きず)を蔵(かく)し徳を揚げて自ら省(かえりみ)ること能わざる(無反省)は是れ無慙の人なり」です。

 

「優婆塞(在俗)は男なり我慢以って本とせり」です。この〈我慢〉とは「執した我見に慢ずる事」です。〈我見〉とは「我有り・という見解」です。我有り・とは、我はアートマンつまり実体・という事です。自分及び万物に「アートマン(我・実体)有り」という見を〈我見〉と」言うのです。この〈我・我見・自性・自性見〉こそ六師思想の骨格でした。

 

このアートマン(我)の性質をスヴァブハーヴァ(自性)とインドでは言って居りました。この〈自性〉を今の言葉では〈本質〉と申します。つまり・ギリシャ哲学が主張する〈実体・本質〉が六師の〈我・自性〉(アートマン・スヴァブハーヴァ)そのものなのです。おまけに、万物の〈個在・独存〉という考えが両者に共通しているのです。この〈個在・独存〉は〈プドガラ〉と申しまして、釈尊に厳格に排除された〈迷者の通俗なる思い〉でした・プドガラ・実体・本質……そして二者択一の論理つまり〈二辺見〉・これらこそ「世間の荘厳の文飾・無義の語」の内容だったのです。

 

我々は・そして・万物万事・万象万法は全て、宇宙の雄大なる階層構造の中へ組込まれ……歴史的にも空問的にも〈組込まれ・他へ依存し且つ依存され〉て存立しているだけでして、決して〈個在・独存〉しては居ないのです。プドガラ主義は〈事態把握上の虚偽〉なのです。〈観察に関する虚偽〉なのです。ブラジル人から言わせると、日本人は「地球にブラ下がって暮らしている」ではありませんか。地球へ完全に〈依存〉しています。決して独存してはいません。個在もしていません。人間は社会ヘ〈依存〉しないと生存不可能です。万物・万事・万象・万法・いづれも皆同様です。プドガラ思想は俗人の勝手な妄想でしかありません。

 

〈個在・独存〉が成立しない・となれば、万法万象に就いて・その中に・その奥に・〈実体・本質〉も又有得ません。何故ならば、実体と本質とは〈プドガラ〉を前提としてしか考え出す事が出来ないからです。詳しい解明は省略して、結論から言ってみれば、実体有り・本質有り・という有我・有自性の哲学思想は、単なる〈言葉による騙され〉でしかなかったのです。この〈個在・有我・有自性〉という六師思想を破して・釈尊は〈相依・相待の縁起・無我・無自性〉を説き、因縁仮和合の縁起仮有に基いて・空と中・という論法上の反省判断を説き、〈仮有→空→中〉の三諦の悟りを人々に教えたのでした。

 

ですから、内外相対とはどういう事か・釈尊と六師とは何処がどう違うのか・と言えば、まず

 

六師は、宇宙・世界を〈物の集り〉と考えていた。これが個在(プドガラ)主義となり、個在観から万象万法には〈実体=我、本質=自性〉が存在するものと考えていた。

釈尊は、宇宙・世界は〈物の集り〉ではないと悟り、〈事件の集り〉と考えていた。事件・出来事・の集りであるから諸因諸縁が寄合って――これが〈縁起〉という事です――そこに一つの〈佇まい〉として・組上げられた形として仮存している(これが空仮中の仮という事)という〈縁起の法門〉を説いたのです。

 

因と縁との相依・相待、これが・存する一切法万象の姿である……二因縁仮和合・というのが仏説でありまして、勿論・日蓮大聖人に於かれましても全くこの儘な訳であります。一切法は因縁仮和合でありますから、これを仮とも有とも称し、それ故に実体(我)も本質(自性)もこの中には在り得なく、万法は無実体・無本質(無我・無自性)である・という事であります。

 

妙法も自分も確かに存立しているが、その儘無実体(無我)無本質(無自性)であります。自分にせよ他人にせよ他の万象万物万法にもせよ、若しも個在しているものであり――これは世俗の日常常識に於ける錯覚にすぎません――我・自性(実体・本質)を所有しているものならば、これは決定して〈実有・厳有〉であって〈仮有〉ではないし、断じて空にも中にも成り得ない事であります。三諦――空仮中・一念三千・妙法蓮華経――は成立しないのであります。

 

一切は〈仮有〉であるからこそ空にも中にも成るのでありまして、動きの取れない実有・厳有では空にも中にも成る事不可能であります。一切法は、一切は、因縁和合の〈仮有〉と因縁離散の〈仮無〉とで運行しているのでありまして、これが万象の眞相であります。ここ迄に述べた決定的な違いから、つまり・出発点からの違いから六師の法と仏の法とは決定的に別れているのです。この出発点の違いから内外相対の法門が出て来るのであります。仏法で言う〈有・無〉は〈仮有・仮無〉という〈判断〉だからこそ矛循律違反な筈の〈非有非無〉(空)が妥当に成立している・という点を能く能く御考察願いたいものであります。これは推理推論上(横型)の判断ではなくて〈反省判断〉(縦型)なのであります。こればかりではありません

 

六師は、悟りとして天界を求め説いた。他の諸宗教も皆・悟りや救いとして天界を説いております。

仏は、六師が悟りとする天界(天界・六道)を輪廻する迷い・と排して仏界を説いた。

六師は、悟る方法として推理推論の法(二辺見)を説き、その修行方法として苦行か楽行かを選んだ。この苦楽二行は今でもインド及び日本にまだ残っています。

仏は、悟る方法として論法上の反省自覚の法を説き、推理推論(二辺見)を分別虚妄と排して不苦不楽中道行を説いた。三観三諦の観法も妙法唱題の受持一行も全て不苦不楽中道行である事は言う迄もない。正像に於けるあらゆる仏道修行も皆・不苦不楽中道行であった。

 

兎に角、仮→空→中の順に論法としての反省行を行ずるので空仮中三諦は成立するのでありまして、論法反省を行じない限り妙法は成立せず、妙法蓮華経は現出せず、一念三千は成就しないのであります。南無妙法蓮華経の七字を拝してみれば、〈在る事・在る法〉は〈法〉と〈経〉との二つだけであります。〈南無〉と〈妙〉と〈蓮華〉(因果・行業因果法)との三つは〈在る事・在る法〉ではなくて〈知る事・知る法〉であります。特にこの中でも〈南無〉の一つは〈知るべき事・知るべき法〉であります。これ等で判る様に仏法は必ず〈智法〉でありまして・断じて〈境法〉ではないのであります。

 

又・以上で判る通りに、実に六師外道は〈推理推論で境法を説いた〉のであります。つまり推理推論によって――無明覆障の儘で推論結果も無明覆障の儘――〈無形存在の学〉たる形而上学を説いただけなのであります。説かれた法は単なる俗諦にすぎず無明覆障の儘なので〈分別虚妄〉と排されたのです。これに対して、釈尊は断呼として形而上学を排し境法学説を排しました。この事は阿含部箭諭経等で既に明自であり、竜樹・天台・皆然りであります。仏の説いた法は〈縦型反省論法の智法〉だったのであります。然るに、仏法は常に〈智法〉であって断じて〈境法ではない〉事……この当然過ぎる常識さえも通用しないとは何たる事でありましょうか。

 

仏法が若しも境法学説であって推理推論で得意されるものならば・信行は一切無用でありましょう。大学を出て博士にでもなれば済む事ではないでしょうか。仏教学従事者は皆・得道成仏してしまう事でありましょう。こうならば正宗の宗門も無用の長物な筈であります。反省修行も何も彼も・仏道修行の一切は全て要らぬ事であります。現実の事実は決してそうではない……という事は、間接ながら・仏法は反省自覚の智法である事を立証して居りはしませんか。六師思想は実に是くの如くに一大邪義なのであります。〈内外一致〉はこれに勝るもの無き一大邪悪義なのであります。

 

実に、六師思想というものは、仏法以外の各宗教にも・各哲学にも・俗世の一般人にも・共通した通俗思想そのものなのであります。だからこそ受容れられ易く・万人が簡単に捉えられてしまうのです。「判り易い現代解釈・優しい解き方」……などという甘言に騙されてはなりません。

 

こうしてみると、次の妙法観・一念三千論・というものは、如何にでたらめでインチキな「世間荘厳の文飾・無義の語・を安置」した破法のものであるかが知れるのではありませんか。皆様の手元に在る著名な本の中の一文ですから・自分で確かめてみて下さい。文中・ゴシックにしてある部分は悉く誤っている部分を示したものです。然も全体が自覚論を存在論(境法学説・無形存在学つまり形而上学)にしてしまっており、こんな仏法など在るものではありません。

 

(以下・全文を引用するのは冗長に過ぎるので略引とする)

 

 

仏法の認識論――三諦について――

 

(私註)認識論・と言いながら認識論ではなくて、存在論になっている。仏法や仏法の三諦論は反省自覚論であって認識論ではないのに、認識論だと思っている。然も単なる存在論を述べただけで、結局、万事目茶苦茶、何も解っていない迷蒙の極の珍説である)

〔本文〕……、ことごとく、哲学とは、対象そのもの、そしてその奥にある実体・本質への解明にあったといっても過言ではありません。つまり、哲学の命題は、真の実在とは何かという問いかけに出発しているのです。……

 

仏法では三千年前、法華経において、それをもとにした千五百年前の天台の哲理(私註 天台の法門は哲理《俗諦》などではない)において、いとも簡明に(私註 簡明どころか難解難入である)、この問題(私註 真の実在とは何か・との問い)を説き明かしております。これが三諦論なのです。

 

三諦とは、空諦、仮諦、中諦の三つをいいますが……、宇宙の森羅万象の実相(真実の姿、実在)(私註 三諦は・宇宙の森羅万象を相手取った命題ではない。相手取ったものは・我れの作用中の只今の一念の迷蒙作用そのものである)は、この三つの立ち場から、誤りなく明らかに把握することができるということです。つまり、三諦とは、仏法に説かれた認識論である(私註 断じて認識論ではない)ということができます。

 

三諦をそれぞれ説明しますと、まず仮諦とは、万法(一切の現象)(私註 この万法は・己心変化の一切万法であって外物の話ではない)を、物質面(私註 己心の話なのだから物質面など登場して来る訳が無い)、現象(私註 客観現象だと思い込んでいる。大いなる見当違い)の変化の面からみていくことです。万法は、ことごとくおのおの仮りに、因縁により和合している(仮和合)と認織する(私註 これは・虚妄仮・であって仮諦ではない)のが、仮諦です。仮とは一般の“仮象”という意味ではなく、いわば、存在の変化の面・生成・発展の面をいうのです。(私註 仮を・与えて一般化して言っても、存在の変化面……などを論じたものではない。当事者が当面した依報・正報に亘る境智二法の・それが・九界のいづれであるか・を論じて〈仮〉と言っているのである)――以下本文中略――

 

空諦とは、万法の性分をみることです(私註 空諦とは万法の仮を反省判断して得た諦(サトヤ)である。性分など見てもサトヤ(諦)にはなりっこない)。性分とは、性質、智恵・感情等を指します。空とは、有るといえば無く、無いといえば有るという、有無の概念(私註 有無は概念ではない。存在判断か叙述判断か反省判断か、いづれにせよ〈判断〉である)を越えた存在(私註 空は存在などではない・当事者の反省判断である)であり、物質的にとらえることはできないが、状態(私註 空は・物の状態・などではない)としては厳として認めざるをえない実体(私註 空も亦復空なり・で、空の実体化は釈尊に厳禁されている)です。……、しかし、絶対に無くなったのではなく、また縁にふれて現われてくる。このような存在を空(私註 存在は《仮有》でしかない、空ではない。存在を空という事は有得ない。空は人の反省判断である)といいます。

 

中諦とは、統一された生命体としての存在それ自体を明らかにみることです(私註 一色一番無非中道・と、非生命体についてさえ中諦は言われるのである。生命体としての存在自体を如何に科学的に又は哲学的に明らかに見たとて虚妄仮の俗諦にしかならない。中諦にはならない)。それを常住不変の実体(私註 常住不変・は・諸行無常に反する。常住不変こそ六師外道の〈常見〉《断見の裏返し》である。不断不常の離二辺見でないと仏法の正見ではない。仏法で「常住」と言う場合は常に法性論として・不断不常・の意で用いているのである。〈唯法の常住〉ではなく〈法性の不断不常の常住〉論である。実体・に就いては既に述べた通り。空や中を実体化するのは六師外道見だからである。万法を常住不変の実体・とは見ない・からこそ中諦へ達し得るのであって、中諦に実体など有得ない)とみます。

 

たとえば、Aという人の肉体は仮和合で、新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます(私註 これは虚妄仮。仮諦ではない)。また、Aの心も瞬間瞬問に怒ったり、笑ったりしています(私註 これも虚妄仮。空でさえもない。ましてや空諦ではない)。しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとはいえず、更にそこに常住不変の生命(私註 常住不変の生命・など有得ない。生死を通じてうつろい変って行くなかに、法性としての十界《十界法性》だけが保たれて行くのだ)をみる事が出来ます(私註 見る事が・出来ない)。すなわち、幼年の時、壮年の時、老年の時にも、一責して変わらないAという人格が存在します(私註 人格は変わる。一貫して変わらないのは・呼び名としての・Aという呼称・この仮名《けみょう》だけである。つまり・自己同一《アィデンティティ》という推埋推論上の思念だけである)。このAをAたらしめている実在(私註 何等かの存在がAをAたらしめているのではない。常無い無常の変化だけがAをAたらしめているのである)を「我」といい(私註 我・と言うのは六師外道だけである。釈尊は・無我・と言う。無我なる相続をする所を・呼び名・呼称・として〈我れ〉《仮名我。我は但是れ名のみなり》と呼ぶだけの事でしかない)、この本質に眼を開いていく(私註 無い本質に眼を開いていく事は不可能)ことを中諦という(私註 中諦論とはこんな科学論などではない。これは形而上学としてさえも誤っており、俗諦にさえ成っていない)のです。

(以下本文6頁は余りにも非道く、冗長で、操返しでしかないので省略する)

 

私達が仏界を現ずるときは、……仏の振る舞いとなり、白然に大宇宙のリズムに合致し(応身)(私註 大宇宙には六道のリズムしか無い。だからこそ輪廻するではないか。四聖《二乗・菩薩・仏》のリズムは反省者・反省自覚者が発振源であって、宇宙の方ではない)、……、よくいう「全体人間」というのも、この無作三身のなかに、その実体がある(私註 無作三身のなかには如何なる実体も全く無い)といえましょう。――以下・略――(私註 以上全てが〈他心の法〉〈他覚の法〉であって、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麁法なり、……、一生成仏叶いがたし」(一生成仏抄)この他・御書全編・一切経全部・竜樹・天台等の一切の著述に違す)

 

 

以上・引用した本の一節に就いて、ゴシックにしてある部分は全て〈六師義〉の〈内外一致〉の一大邪義なのです。それはもう一目瞭然・ゴテゴテ説明する迄もないでしょう。こればかりではありません。私達がここ26年来・買わされ続けて来た万巻の書の全てが、どれも皆〈内外一致の六師義思想〉そのものの本であった事にお気付きになりませんか。『仏教哲学大辞典』からしてそうなのです。正しい法門を教える筈の大辞典が六師義を教えていた……嘘と思う方は「妙法」の項でも何でも・大事・と思う項目を索いて御覧下さい。全部六師義ですから……。仏法ではありませんから……

 

書物ばかりではありません。雑誌に連載された対話も・今迄聞かされて来た講義・講演等の全てもがそうなのです。恐ろしい事です。最近でもこんな指導講演を聞かされませんでしたか。

 

「そのようにおわびの布教に励んだけれども、日興上人はなかなか許されなかった。それは目興上人が日尊の本質を見破っておられたが故である。(私註 日興上人は、有りもしない日尊の本質・をどう見破られたのでしょうか……)……こうした手前勝手な傲りの心こそ、退転しゆく者の本質であることを、ここで強く申し上げておきたい」

 

この様に六師外道義を信じ述べている事こそ「退転しゆく者の『本質』である」のではないでしょうか。又「手前勝手な傲りの心」ではないのでしょうか。六師義を教え込まれ、真に受けて「新時代の措導者に」成ったら、成った方も成られて指導される側も、これ以上の災難は又と在るものではありますまい。こういう『仏法の師弟観』を教え込まれて、貴方は果たして受容れられますか。願わくは、もう一度信心の原点に立戻って再考してみて下さい。「自身に於いては決して疑うべからず、師法の二は疑いて後にまさに決すべし」『弘決』)です。盲目受容は〈信〉ではないのです。

 

「師資の道は一を欠いても成ぜず」とございます。師には師としての自行化他・双照能化・の精進道が在り、資(弟子)には所化としての自行化他・双遮向上の勇猛道が在り、どちらか片方を欠いても師資の道・仏法の師弟道は成立しないのであります。自分の師は、自分で「果たして正師か邪師か」と疑って見極めてからでないと・師には仰げないのです。「疑いて後にまさに決すべし」とはこの事なのです。団体へ入会したから団体の長が〈自動的に師となり〉入会した自分が〈自動的に弟子になった〉のではありません。自動的に成立する師弟道など金輪際在り得ません。押し付けた師弟道ならば論外であります。

 

これ以上は話が余りに長引きますから、これで終りに致します。兎に角、六師義は人法共に仏法に非ざる一大邪義です。どなた様も「世間の荘厳の文飾・無義の語」に惑わされる事無く、一切を御金言にまかせて、一生成仏の大道へ立戻って、精進せられん事を願うものであります。

 

昭和61年7月20日


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