『極楽と地獄−日本人の浄土思想』
『佛教入門』
『布施と救済』
著者はインドの古典語のその文献に通達した学者で、インドの説話文学に関しては世界的権威である。しかも、著者はインド古代史に深い関心と該博な知識を持つ学者としても有名で、彼の書くものはすべて広い視野と深い学殖の産物で読者を驚嘆させずにはおかない。今日わが国のインド学者で、彼ほどレパートリーの大きい学者は他にいないといってよい。彼は常にわが国の仏教学者の視野の狭さを慨嘆し、またかれらに問題意識の欠如していることを非難する。彼は相当ズケズケものをいうので、大分損をしている。その癖、彼の教え子で彼を得とする人の多いのも事実である。それと言うのも彼が嘘を言えない男だからである。彼の書くものにも嘘はない。自己の保身のために筆を曲げたりすることが絶対にないのである。その意味で、本書もまた仏教者の嘘をあばき、仏教の真実の姿を伝えるものであり、まさに著者でなくては書きえない書ということができよう。(『極楽と地獄』裏書きより)
P | 項目 | 抜き書き | |
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106 | ウッタラ=クル | 鬱単越(参)『佛教入門』鬱単越 | |
117 | エデンの園の位置 | エデンの園は『旧約』の「創世記」によれば東方にあった…… | |
84 | 黄金(装飾語) | 初期の仏典では、ブッダを修飾するのに黄金で比喩することはあっても、光明で修飾することはない。初期の仏典を編述した上座部の仏教には、光明思想はなかったといっても誤りではない。上座部の分派に属する経典には いま舎衛城の大僧院に滞在される「われわれの師」(ブッダ)は、純金の塊さながらで、精錬された黄金に似て、純金のように清らかである。 と記しているが、また上座部の系統をひくセイロンやビルマの仏教では、仏像を黄金で飾りたてるのが普通である。 ……漢訳仏典の中に「ブッダの言葉あるいはその説いた教え」を金口というものがあるのは、この上座部における表現の残滓である。 | |
152 | 閻魔の国の位置 | 『霊異記』の説話においては、閻魔の国は地下にあると考えられていなかった。 | |
216 | 恩寵 | 念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物 この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じであり、アウグスティヌス(354-430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであり、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそれが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis daturということである。 | |
228 | 恩寵説の仏教 | ||
230 | アミダ経の恩寵説が浄土教の中にクローズアップ | ||
60 | 加上 | 家系などの起源を古くするために、さらに何代かの祖先を昔に書き加えること | |
116 | カローシュティ文字 | (図) | |
215 | 願 | 「願」と訳されるプラニダーナという語は梵語で「前に置く」とか「あるものに心を向ける」という意味の動詞プラ=ニ=ダーに由来する。したがってプラニダーナという語は「熱烈な希望」とか「誓い」を意味する。『法華経』などに見られる場合、この語はその意味で用いられている。ところが、今日では本願という語は一般的に他力本願というように用いられて、「一切の衆生がアミダ仏の本願の力によって救済される」という意味を持つようになっている。(参)恩寵 | |
51 | 観 | 「観」の字をかむらせた経典……注目されることはこれらの訳者はすべて西域の出身者、また経典の構成ならびに発想法がインド的でない点である。とくに、『観経』の場合、その点が指摘される。 | |
50 | 『観経』 | ||
205 | キリスト教(仏教への流入) | キリスト教は景教の名で唐代に中国に流布し、中国における最初の文献は貞観九年(635年)の大奏景教流行中国碑である。 | |
205 | 具注歴 | 具注歴というのは毎日の月日・七曜・星の名・十支・十二支などを書き示し、それに注をつけて毎日の吉凶禍福を人間の行為に当てはめて表示した歴で、その日々の欄の余白に日誌を書き込むようになっている。 | |
126 | クマラジュウ | ||
83 | 光明思想 | 無量光仏の背後にある光明思想は西暦一〇〇年から一五〇年ごろまでに展開されたことが知られる…… | |
105 | 極楽の位置 | 極楽は東西南北という方位観から「西方にある」と表象されていて、天上・地下という上下の観念の上に立つものではないということを忘れてはならないであろう。 ところで、インドでは、このように方位観に上に立つ別の楽園がある。すなわち、ウッタラ=クルで、仏典では鬱単越と一般に記されている。 | |
136 | トソツ天はいわゆる天国であって天界であるのに対し、極楽は方位観に立つ楽園思想の所産であり、天国ではない。 | ||
183 | 三途の川 | 参)チンワト橋 わが国における「三つの道」ないし「三途の川」の信仰には、明らかに死後における審判の思想が見られることを見逃してはならないであろう。 | |
146 | 地獄 | =度南(『日本霊異記』上巻第三十話)わが国における地獄に関する最初の所伝…… | |
163 | 地獄(起源) | 地獄の信仰なり思想なりがインドの原住民の宗教信仰の影響で成立したという証拠はまったく知られていない。 ところが、インダス文明の時代以来交流の行われていたチグリス=ユーフラテス河流域には、古くから地獄の思想があったことが知られている。すなわち、この地域には世紀三千年のころから栄えたシュメール族の間には「戻ることのない国」クルの信仰があった。冥府クルは地下の陰鬱な国で、バビロニアおよびアッシリアのアラルルー、ヘブライ族のシェーオールとともに、セム民俗が古くからもっていた地獄思想の表象である。ギリシア人が信じた地獄ハァーデースは、このセム民俗の信仰の影響で成立したことが知られている。しかも、シュメール民俗の間には、世紀二千年ごろに、女神『イナンナの地獄遍歴』の神話があり、西アジアおよびギリシアの神話伝説にさまざまな影響を与えた。インドもその例外ではなかった。 インド文化史の立場から見て、地獄についての信仰は世紀前十世紀ごろよりのちにインドに達したと考えられる。 | |
192 | 死後の審判 | 死後の審判という宗教信仰、すなわち宗教学でいう終末論(エシャトロジー)は、キリスト教・ユダヤ教そしてイランのゾロアスター教では有名であるが、仏教にはもともとない思想である。よく知られているように、仏教には善因善果・悪因悪果という業報思想があり、その結果として、四生あるいは六道に生れ変わり死に変わるという輪廻の思想があった。死後に審判を受けるという終末論的な思想は全然なかったのである。ところが、『霊異記』に見られる地獄の報告に関する諸説話、さらには平安末期以後の「三途の川」の所伝には、明らかに死後における審判という宗教思想がはっきりみとめられるのである。 | |
156 | 地獄(名前) | 西暦二、三世紀ごろまでに成立したとされる『マヌ法典』および『ヤージュニャ=ヴァルキヤ法典』では二十一の地獄名を挙げている。 1タースミスラ(暗黒)2ローハシャーンク(銅釘)3マハーニラヤ(大破滅)4シャールマリー(パンヤの木)この木の棘が地獄の責め苦に用いられる 5ラウラヴァ(叫喚)6クドマラ(突起)7プーテl=ムリッティカ(腐土)8カーラ=スートラ(黒縄)9サンガータ(衆合)10ローヒトーダ(赤血水)11サヴィシャ(具毒)12サンプラターパナ(極熱)13マハーナラカ(大地獄)14カーコラ(大烏)15サンジー=ヴァナ(等活)16マハー=パタ(大道)17アヴィーチ(無破浪)18アンダ=ターミスラ(真暗黒)19クンビー=パーカ(焙焼)20アシパトラ=ヴァナ(剣葉林)21ターパナ(灼熱) ヒンドゥ教の聖典『ヴィシュヌ=プラーナ』には二十一(伝本によって二十八)の地獄名が挙げられているが、前述の法典における記載と大差ない。 | |
168 | 地獄(初期仏典) | 仏教においても、すでに早くから、地獄の思想が導入されて、善因善果・悪因悪果の業思想の中に包括された。 例えば、仏典の中で最も初期に成立したと考えられている『ダンマ=パダ』(法句経)第三〇六編に 「嘘を言う人は地獄(ニラヤ)に堕ちる。また自分が実際にやっておきながら『わたしはやらない』という人も同じである。両者とも好意の卑劣な者であり、死後には同じ来世をたどるのだ」 と記され、同じ三〇七編に 「多くの人々は法衣を肩にまとうていても、悪い行いをして節制がないならば、このような人々はその悪い行為のために地獄に生れよう」 『スッタ=ニパータ』(経集)には,地獄に関する詳細な記述が見られる。――以下略 | |
161 | 地獄思想の展開 | ||
150 | 地獄変の恐怖 | ||
158 | 地獄変(アジア) | ||
148 | 地蔵信仰 | ||
195 | 七曜 | 西アジア方面における七曜の説……古くから一週を現すのにサプタ=ラートラ(七夜)という表現を用いるが、中国に七曜の説をもたらしたのは西暦一世紀ころから八、九世紀ごろに至るまで西域一帯を商人として活躍したソグド人である。(参)密 | |
195 | 十王 | 十王信仰の背景をなしている七日を基準とする計算法(参)七曜 | |
183 | 『十王讃歎鈔』 | ||
120 | 浄土 | ||
224 | 称名念仏 | 称名念仏ということは、仏の恩寵を懇請することであり、バクティと同じ宗教的態度である。 | |
116 | スカヴァティー エデンの共通性 | ||
111 | スカーヴァティー (名の起源) | 極楽の原名がスカーヴァティであって、「幸福のある(土地)」の意味をもつ 訳出年代の順番(表) 『佛教入門』スカーヴァティ | |
114 | スカヴァティーの名の起源は、どこに求められるのであろうか。結論を先にいうと、著者はスカヴァティーとはユダヤ教やキリスト教で知られている「エデンの園」のエデンの訳語ないしその名にヒントを得た構成であると考えている。エデンとはヘブライ語で「快楽」を意味するエーデンのアラム語形であるが、アラム語はヘブライ語と同じく西部セム語派に属し、『旧約聖書』は最初この言語で編述された。 | ||
65 | 三身 | ||
52 | 『小経』 | ||
53 | 『大経』 | ||
85 | 太陽神 (仏教に採り入れられた) | ……最後に登場してくるのが太陽神そのものを仏教に採り入れたマハーヴァイローチャナ(大ビルシャナ仏)すなわち大日如来である。その他の大乗経典においても、ブッダは常に光明の存在である。 | |
89 | 太陽神 ミスラ神 | ミスラ神はイランにおける太陽神 | |
190 | |||
199 | チンワト橋 | ゾロアスター教における死後の審判……明らかにチンワト橋は「三途」の一つの表現であるが、橋と称しながら川のの存在は明記されていない。ある学者は「橋」というよりむしろ「通路」「道」の意と解している。 チントワ橋の所伝はイスラム教に影響を与え(た。) | |
162 | ナラカ | 『リグ=ヴェーダ』を見ると、…死後審判の場所としての地獄についての記載はない。『アタルヴァ=ヴェーダ』になると、後世において「地獄」を意味するナラカ世界という言葉が現れ、天国(スヴァルガ)に対立するものとされているが、この世界は死者の世界ではなく…… | |
74 | 如来 | ||
42 | 念仏 | 念仏はもともと「ブッダを心に思うこと」を意味し、仏教の開祖ブッダの死後まもなく起こったと考えられる。すなわち、ブッダを追想し、思慕し、その教えを回想して反復して、自己の修行に役立たせることであったが、次第に修行の作法として固定するに至った。それがのちには「死せんとするときに仏を念ずれば、死後にみな天上に生ず」(『那先比丘経』)と説かれるようになり、ついには念仏といえばアミダ仏信仰にのみ限られるようになった。 | |
118 | ノアの洪水 | 『旧約』に知られる「ノアの洪水」伝説と同じ所伝が、仏教の成立より古いブラーフマナ文献に人間の始祖マヌについて物語られて事実がある。 | |
164 | 『旧約聖書』に有名なノアの洪水伝説と全く同じ伝説がインドでは人間の始祖マヌについて物語られている……文化交流に基づく。 | ||
218 | バクティ | =誠信。バクティとはある特定の神への絶対的帰依を意味する。 | |
224 | バクティ (仏教への影響) | バクティ思想が水のみなぎりさかまくように西北インド方面の宗教界に渦巻いていたことを示し、自力的な菩薩行をモットーとする仏教徒もこれを無視することができなくなり、自らの教説の中に採り入れて、理論的調和をはからざるをえなかったことを示すといわねばならぬ。 | |
221 | 「信道」すなわち神への絶対帰依こそ『バガヴァッド=ギーター』の全編にみなぎる無限の福音の発露である。 | ||
118 | ピタゴラスの定理 | 「ピタゴラスの定理」としてよく知っている直角三角形の「三平方の定理」が、すでに世紀前二〇〇〇年ごろのバビロニアの文献に見られ、一方ではギリシアに伝わって「ピタゴラスの定理」となり、他方ではインドに伝わってヴェーダの祭式に利用されたことも知られている。 | |
72 | 不動明王 | ||
79 | 変成男子 | アミダ信仰が『法華経』の中に採り入れられた(参)『佛教入門』変成男子 | |
63 | 菩薩 | ボーディ=サットヴァという語の音写で、元来はブッダの前生における呼び名で「さとり(ボーディ)を求めるもの(サットヴァ)」という意味であったが、大乗仏教になると、菩薩とは「さとり」を求めて自ら修行し、また一切の衆生を「さとり」に到達させようとする偉大な志をもつ人物とされ、ブッダの前生という神話的世界を完全に超越した宗教的な人格となったことが知られる。 | |
57 | 仏と如来 | ||
205 | 『摩訶摩耶経』 | 唐代に中国において作られたとされ、そこに見られる釈迦の金棺出現はキリスト教で説かれるキリストの復活の信仰の影響を受けて成立した伝承と考えられている。(参)『佛教入門』婬戒の崩壊 | |
128 | ミロク | 未来仏としてのミロクに対する信仰はすでに古くからあり、ミロクが未来において仏に成るという予言――これを仏教の術語では授記という――をブッダから受けるという所伝は比較的初期の経典に見る。『マイトレーヤ=ヴァラカラナ(ミロクへの授記)』と題する梵文の経典もある。(参)『佛教入門』弥勒 | |
196 | 密 | 日曜日を「密」と称する慣習は地域的に広く且つ長期にわたって中国の民間で行われたことが知られている。「密」とはソグド語で「日曜日」を意味するミールの音を写したものである。 | |
205 | 敦煌から出た五代や宋の時代の暦を見ると、日曜日に当たる日の上に「みつ」という字が記されている。 この「密」の字が藤原道長の日記(いわゆる『御堂御関白日記』)を書き込んだ具注暦に見られる。 | ||
81 | 無量寿と無量光 | アミターユス(無量寿)とアミターバ(無量光)(表) | |
161 | ヤマ | インドの最古の文献『リグ=ヴェーダ』によれば、死者の住処は天であった。人間が死ぬと、魂はその肉体を離れて永遠の光のある場所に赴き、神々と同じ光明が授けられると信ぜられた。……ヤマは最初に死んだ人間として天国への道を最初に見いだした者であり、天国の王者とされた。 |
『佛教入門』中公新書
実に佛教と学問を混同し、学術的研究と教学とを同一視し、両者の区別を付けられないのがわが国のいわゆる佛教学者、特に僧侶で佛教学者といわれる人が多いことも知っておく必要があろう。このような人々はかれらが学術的論文と称するものにおいても説教を忘れない。(はじめより)
P | 項目 | 抜き書き | |
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14 | アーディッチャ | 「王よ、かなたヒマラヤ山の中腹に、一つの部族がいます。富と勇気をそなえていて、コーサラ国民の間に住んでいます。氏はアーディッチャと称し、釈迦と名づける種族で……」(『スッタ=ニパータ』) | |
24 | 初期の経典の多くに、「ブッダはアーディッチャの親族」と呼ばれている。ここにアーディッチャ(梵語形アーディティヤ)とは「太陽」の意味であるが、このような氏族名は他に全然伝わっていない。したがって、アーディッチャという氏族名はブッダに関して作られたものと考えるべきである。特に、ブッダを指して「アーディッチャの親族」と呼んでいることは、ブッダを太陽神のごときものに神格化しようとした呼び名であることを示している。 | ||
4 | オッカー王 | 後代の梵語経典『マハー=ヴァストゥ』には、釈迦族の祖としてイクシュヴァーク王の名を挙げているが、この名はオッカー王の梵語形である。漢訳仏典では一般に甘蔗王と訳されているが、この訳語はイクシュヴァークの語頭のイクシュが梵語で「甘蔗」を意味することから、そのように訳されたのであって、もとより正確な訳ではない。 | |
5 | イクシュヴァーク | インド最古の聖典『リグ=ヴェーダ』以来有名な古代の英雄で、広大におけるヒンドゥ教の聖典ではアヨーディヤーに都した日種族の祖とされている。 | |
88 | 婬戒 | ||
93 | 歴史上の人物としてのブッダの言葉に最も近い詩句を集めて編述されたという『スッタ=ニパータ』を見ると、直接間接に「性交をするな」と説いた所伝が相当に多い。 | ||
94 | 婬戒の崩壊 | ブッダが厳重に禁止したにもかかわらず、婬戒が次第に崩れていったことは想像にかたくない。いつごろか、どのような経過で崩れていったか、それをうかがい知る資料はないが、五世紀の中ごろから六世紀にかけて漢訳された『賢愚経』、『摩訶摩耶経』(参)、『大非経』などには、僧で妻を蓄えた者とか、僧と尼の結婚した者とか記されていて、当時すでに僧侶の妻帯が行なわれていたことを明らかにしている。 | |
167 | インフェリオリティ・コンプレックス | 「この経典(『法華経』)を捨て去る災難を数えあげるとすれば、いくら数えても最後に達しないだろう」という。この脅しの言葉はまさにインフェリオリティ・コンプレックスの表現そのものであり、あたかも小児が竹棒を持って強がりをいうのに類すると言っても言い過ぎではない。『法華経』のこの態度は日蓮に見られ、さらにその流れを汲む宗教団体に受けつがれていることは、よく知られていることである。 | |
119 | ヴァルナ | ||
125 | ヴァルナとは何か | 『シャールドゥーラ=カルナ=アヴァダーナ』に見られる「四種のヴァルナ」とは何であろうか。 ヴァルナとは古代インドの言語ではきわめて普通の単語で、元来は「色」を意味する。しかし、かなり広範囲に用いられている語であって、特にインドの最古の文献である『リグ=ヴェーダ』以来、社会的な階級ないしは差別を表すのに用いられており、バラモン(『司祭者』)、クシャトリア(王侯、武士)、ヴァイシャ(庶民)およびシュードラ(奴隷)の四種を総称してチャトゥル=ヴァルナ(「四種の色」の意)といったことが各種の文献から知られる。 | |
13 | ヴラティーヤ | 「インド=アリヤン人とは異なった特殊の慣例を守る者」の意(『マヌ法典』) | |
42 | ヴェーダ文献の年代 | 『リグ=ヴェーダ』は銅時代に属し、『アタルヴァ=ヴェーダ』およびブラーフマナ文献には鉄が知られている。また、ブラーフマナ文献には鉄の熔触精錬のことが述べられている。この事実を、古くからインドの交通のあった近東地方の金属文化の年代と合わせて考えると、『アタルヴァ=ヴェーダ』を世紀前十世紀ごろ、そしてブラーフマナを前八〇〇年ごろ以後の成立としなければならないであろう。そして、ウパニシャッド文献はだいたい八世紀ごろから成立したと考えられる。 | |
70 | 縁起説 | ブッダの縁起説と従来の輪廻説との関係を考えてみる必要がある。ブッダは苦悩の原因を追求して、それは欲望にあると断定して、それは再生の原因となると説いた。すなわち、ここでは従来の輪廻をみとめて、自己の教説の中に採り入れているのである。そして、「欲望は何によって起こるか」という問いに対して縁起説を展開し、欲望(トリシュナー、「渇愛」)をその中に包摂してしまった。このことは、輪廻という縦の関係を縁起という横の関係で説明しなおしたということを意味する。すなわち、ブッダは従来の輪廻説を前提にして、業によって再生を重ねるという縦の関係を、横に展開していく縁起の観念によって説明しなおして、新しい教義体系をつくりあげたのである。佛教のおける「業」の観念も、そのような関係において理解されねばならない。 | |
86 | 厭世主義の克服 | ブッダは厭世観に溺れることなく、現実の苦悩を直視して、その本質を見きわめることに成功した。すなわち、「さとり」を開いたのである。そして、その「さとり」の立場から「苦」の克服を提唱し、そのための実践道を説き、その思想体系の基礎をうち立てた。そこにはもはや厭世主義は見られない。それにもかかわらず、佛教はその長い歴史の過程において厭世主義をその中心思想とするものと見られてきた。これは特に、中国およびわが国においてははなはだしい。人間としての生活活動を避けて、個人的な陶酔の生活に逃避するという厭世主義に生きた人は、中国およびわが国の仏教者に多いことを知られている。 それではなぜに、特に中国およびわが国において、現実逃避的な厭世主義思想が仏教の中心思想であるかのように見られるにいたったかというと、二世紀の後半以後、中国に佛教が流伝した時代の影響によるものである。当時の中国は後漢末期の混乱期で、社会の混乱とともに人心は虚無的になっていた。したがって、道教(老子を教祖とする宗教)が勢力を得て、その説く無為自然を道徳の標準とし虚無を宇宙の本源とするような思想による逃避が流行していた時代である。したがって佛教とくに大乗の空思想を理解するのに道教の思想が対比されたのであり、仏教者もこれを利用したことが知られている。すなわち、仏教の教義を説明するのに道教で尊ぶ『老子』とか『荘子』という書の思想を借りたのである。その結果、佛教そのものが逃避的・厭世的なものと理解されるようになったのは当然である。 わが国では平安朝中期以後、世の動乱とともに大きくクローズアップされ、一方では欣求浄土(心から喜んで浄土に往生することを願い求める)が礼讃され、他方では出家遁世するものがふえた。『方丈記』の鴨長明(1153-1216)はこうした遁世者の一人であり、曹洞宗の開祖道元(1200-1253)でさえ消極的・退嬰的な隠遁をすすめている。 ブッダの積極主義が二千年の歳月とともに道元の消極主義に変貌している事実は見逃してはならない。そこに歴史があり、また退歩があると言わねばならないであろう。 | |
82 | 戒 | 五戒 一 殺生をしない 二 盗みをしない 三 婬(みだら)なことをしない 四 嘘をつかない 五 酒などを飲まない これを普通に「五戒」という。その中で第三戒は出家者には絶対的であったが、在家の信者の場合には「正当な配偶者以外」という但し書きがついている。 次に、出家した者について言えば見習期間でも、前記の「五戒」に次の五カ条が追加される。 六 不適当な時間(午後を意味する)に食事をしない 七 踊り、歌、楽器の演奏、見世物を見物しない 八 華鬘(身体の装飾に用いる花輪)、香料、化粧品、装飾品を用いない 九 大きくて高い寝台の上に寝ない 十 (貨幣またはその代用品としての)金銀を受け取らない したがって、第六から第十までの五カ条は出家者と在家者を区別する重要な「戒」であることが知られるが、二十歳になって見習期間が終えて正式な僧になると、男は二百五十戒、女は約三百四十八戒という実に数多くの複雑な「戒」を守らねばならなかった。 これらの「戒」はブッダが佛教徒に対して誡めたものであるが、前述のように個人的なものであり、また自立的なものであるので、これを犯したからといって処罰されるわけではなかった。 これに対し、「律」はブッダが制定した教団の法律であって、出家したものが当然遵奉すべき生活基準であり、しかもすべて禁止規定であることは言うまでもない。 | |
5 | 甘蔗王 | 『マハー=ヴァストゥ』の一異本の漢訳である『仏本行集経』に甘蔗王を日種と記している……。 | |
176 | 観音 | この菩薩の起源はなお明確ではないが、西アジア方面の宗教思想の影響を受けていることは疑いえない。例えば、葉枝観音に関する宗教儀礼に葉のついた枝でたたくことが知られているが、これは西アジアにおける母神ナナイアのそれである。現在、その影響はイスラエルにおけるユダヤ教の儀礼にも見られるところで、葉のついた枝は繁殖のシンボルであるという。この事実を考えると、敦煌に見られる楊柳観音・水月観音が右手に楊柳の小枝を持っているのは、ナナイアと関係のあることを疑いえないであろう。特に、観音像のあるものが女性的に描かれている事実は、この菩薩の本質ないし始源型が女性であった子とを示していると考えられる。それと同時に敦煌の楊柳観音が髭をつけているのは、変成男子(参1)(参2)のシンボルと考えられ、その菩薩の本質を明らかにしているものとして興味深い。わが国で名高い慈母観音も子どもを抱いている点から考えて、あるいはマリヤ像の変化したものであるかもしれない。 | |
140 | 喜捨の制約 | 在家の信者から喜捨を受けるにしても、佛教教団の初期には、制限があった。戒律の規定を見ると、「貨幣や金銀宝石の類を受けてはならぬ」、「食物や衣服を貯蔵してはならぬ」、「医薬品としての〓(ヨーグルト)・酪(バター)・油・密・砂糖を七日以上蓄えてはならぬ」というような禁止条項がある。 | |
49 | 苦行者 | バラモンが業・輪廻説で一般民衆にあきらめを植えつけている間に、この宗教思想から離脱しようと考える人々が出てくるのも当然であった。これらの人々は現実の社会でもバラモン教の教権制度に対する反逆者であったが、それは彼らが主としてバラモン教の支配する社会において蔑視された階層に属する者たちであったことが知られる。すなわち、父母の身分が異なる場合の子で、特に父がバラモンである場合が圧倒的に多いようである。 彼らは修行として苦行を行なった。肉体を苦しめぬいて、その精神的、肉体的な力をそぎ、その結果として霊魂の自由を得て、輪廻から離脱しうるとした。したがって、かれらは一般に苦行者と呼ばれ、また沙門と呼ばれた。 | |
51 | 苦行者の説く倫理 | 苦行者の説く倫理の中心は不殺生であって、バラモン教の祭祀において神に供える犠牲としての動物を殺すことを非難し、「不殺生こそ最高の 「ダルマである」と説いている。ここにダルマという語は単なる「宗教的義務」というよりは、佛教でいう、「法」の意味となっている。なお、不殺生は佛教では「五戒」の第一であり、ジャイナ教においては最高の宗教倫理である。また、トリシュナー(渇愛)とかニルヴァーナ(涅槃)などの語が佛教におけると同じ意味で使用されているばかりでなく、初期の佛教経典と共通の文句もいくつか見られる。 | |
150 | 結集 | 第一結集 ―― 王舎城の結集 ついで、百年ほど経って第二回の結集がヴァイシャーリーで行なわれた。このときは、ヴァッジ=ブッタカという者が戒律に関して異端を唱えたためであったという。……彼が宣言した項目の中に 発酵していない椰子酒を飲むこと 金銀を受け取ること というような項目が見られる。……正統派がいたと考えられるマガダ国……正統派がヴァイシャーリーに急いで集まって、デモンストレーションをしなければならなかったほど、ヴァイシャーリーの教団は強かったともいえよう。 第三回の結集……こうした上座部の団結によって分派せざるを得なかった一派がある。これがのちに説一切有部として展開し、マトゥラー地方を中心に栄えたことが知られる。 | |
129 | 業 | 古代インドとくにウパニシャッド以来説かれた業 この業に関する教説を全面的に採り入れた文学が仏教の『アヴァダーナ』である。 | |
131 | 業(生まれ) | 「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。業によって賤しい人となり、業によってバラモンになるのだ」(『スッタ=ニパータ』第一三六頌) | |
98 | 『五雑爼』 | ||
183 | 護摩 | ホーマの音写で、元来はバラモン教の祭式の一つの行事で、祭火の中に供物を投げこむことをいう。これがヒンドゥ教に受け継がれ、佛教に採り入れられたのであって、それが現在では木の薄片を火に投ずるようになった。なお、護摩には息災(災難をはらうこと)・増益(繁栄を祈ること)・調伏(怨敵を呪うこと)の三種があるとされるが、これは『アタルヴァ=ヴェーダ』以来のまじないの伝統を受け継ぐ考えである。(参)自力 | |
17 | コーリヤ族 | コーリヤ Koliya という語は梵語では「コーラ Kola に属する」とか「コーラの子孫」という意味である。……コーリヤ族は人種的にコラリヤ人に属していたことが結論される。……ブッダの体内にはコラリヤ人の血が流れていた。 | |
95 | 金剛乗 | 当時、佛教では、宗教的に見て現実的で実践的な面を強調する密教が展開していたので、ヒンドゥ教の影響を強く受け、いわゆる金剛乗が成立した。この派の教典の中には「象、馬、犬の肉を食え」というような文句とともに、堂々と 「十二歳の賤民の娘を常に抱け」 「ヨーニにリンガを突きたてて、ブッダの一切を思念せよ」 「男女の二根は、すなわち、これ菩提涅槃の真処(さとりをひらき、さとりの境地に達するための真実の場所なり」 というような文句が記されるにいたった。わが真言宗は前述の密教の一派であるが、その基本的な経典においてその神秘思想の中心となっている「大楽」という語は元来セックスのエクスタシーを意味する。 真言宗から別れて平安末期に諸国に流布した立川流は、前記の金剛乗の伝統を受けついで発達したものである。 | |
63 | 再生 | 再生というのは生まれかわることである。 | |
98 | 妻帯 | 羅什の死後まもなくのころに書かれたと言われる牟子の『理惑論』に 「佛道は無為を重んじ、〔布〕施を楽(ねが)い、戒を持し、兢々として深淵に臨む者の如し。〔しかるに〕今の沙門は酒漿(酒やどぶろく)を耽り好み、あるいは妻子を蓄え、賤を取りて貴を売り、……。これ、すなわち、世の大偽なり」(牟子) と記しているところから見ても、当時僧侶の妻帯は羅什だけではなかったようである。 その後、僧侶の妻帯は広く行なわれたらしく、後代の資料であるが、『五雑爼』には、「安徴(あんき)省鳳陽府の僧は酒を飲み肉を食い、妻を娶って一般の民衆と少しも異なるところがないのに課役を課されることはない」と、うらやましがられている。 わが国でも平安初期から僧侶の妻帯が知られており、延喜十四年(914)四月に三善道行の上奏した『意見封事』の中に「国分僧はみな無漸の徒で、妻子を蓄えて家庭をつくり、田を耕し、商売をしている」と、僧侶の堕落を指摘している。その後、僧侶の妻帯は公然の秘密で、『沙石集』(1283)には 「末代には、妻もたぬ上人、年を逐うて稀にこそ聞へし。後白河の法皇は、隠すは上人、せぬは佛と仰せられけるやとかや。今の世には、かくす上人猶すくなく、せぬ佛はいよいよ希なりけり」 と述べている。 ……現在では僧侶はもはや出家者ではなく、妻帯も公然と認められている。 | |
13 | サンガ | 集団の意味 | |
172 | 三身から一神論へ | 大乗仏教が興ると、佛身論がは大きく発展し、急激に展開したことが知られる。そして、ここに現れたのが応身・報身・法身の三身説である。 応身というのはニルマーナ=カーヤの訳で「創造(ニルマーナ)によって現れた身(カーヤ)」の意である。すなわち、超自然的な創造によってこの人間界に出現して成佛したブッダ、言いかえれば歴史上のブッダをさす。しかし、歴史上のブッダは死んで、涅槃に入った。そして、現世を超越した領域に入り、輪廻の超経験的な活動・因果連鎖を断絶してしまった神のような存在になり、天上の楽しみを享受(サンボーガ)する身となった。これが報身(サバーガ=カーヤ)である。 ところで、大乗佛典では、宇宙の森羅万象に成佛の素因があると説く。この素因は真実で永遠に不変であり、あらゆる差別的な様相を超越したものであり、宗教的に言えば絶対者である。そして、ブッダはこの絶対者と融合しているのであり、法身(ダルマ=カーヤ)をもつものとされた。 こうして、佛教は初期の無神論的な正確を捨てて有神論となったのであり、さらに一神教となるのである。 | |
162 | 自己犠牲 | 「布施」と「忍辱」から自己犠牲の精神が展開した……ここに明瞭に利他の精神が現れてくることに注意が必要である。特に自己犠牲の精神は他人に対する寛容から生ずるのであり、ここに佛教でいう寛容の精神が大きくクローズ=アップされる。(参)布施の勧奨 | |
4 | シャカ族 | 一般にインド史に登場するシャカ族は西暦紀元前二世紀ごろに中央アジア方面からインドの西北部に侵入した部族で、中国の資料に塞とされ、ギリシア資料ではサカイ Sakai(ラテン語 Sacae)と記される。 | |
180 | 自力の佛教 | ブッダは、……個人による苦の克服を説いたのであるから、祈祷・まじないなど神秘的な威力によって災禍を免れるという、いわば姑息な手段を許すわけはなかった。 | |
100 | サティー | 夫が死んだとき、夫の死体を焼く火で焼死するというサティー(元来は貞女の意味)という風習 | |
50 | 沙門 | 沙門とは梵語シュラマナの俗語形サマナ samana の音写で、元来は「勤め励む者」、「求道者」の意味である。佛教では僧侶を沙門(あるいは桑門をも書く)というのは、ここに由来する。 | |
129 | 沙門釈種の子 | 余の弟子は種姓も同じでなく、生まれも同じでない。しかし、みな同じように余の教えを受けて出家し、修行している。もし人がおまえにおまえの種姓をたずねたならば、おまえは『私は沙門釈種(釈迦族出身の修行者、すなわちブッダ)の子である』と答えよ」(『長阿含経』第六『小縁経』) | |
131 | 「クシャトリア、バラモン、ヴァイシャ、シュードラの四種姓があるが、これらの種姓に属する人々がブッダのもとで出家し、その教えを学び修行するときには、その本来の種姓と名とを失い、ただ沙門釈種の子といわれるのだ」(『増壱阿含経』第二十一)(参)業・生まれ | ||
36 | 『衆聖点記』 | =しゅうしょうてんき)僧伽跋陀羅(サンガバドラ)が五世紀末に中国に伝えた……ブッダの生誕を世紀末五六六年、入滅を同四八六年と定めた。 | |
138 | 出家 | ブッダがベナーレス郊外の鹿野苑で最初の説法をしたとき「良家の息子を誘って出家させ、一生のあいだ家のない身とならせよう」という言葉を述べているが、これは初期の佛教教団の状態を無意識に簡潔に示していると考えられる。 | |
139 | 出家するということは俗世間の生活と絶縁することであるから、一般の社会生活とくに経済活動とは完全に無縁になる。しかも、教団の戒律も経済行為のすべてを厳禁し、また生産活動に従事することを許さなかった。 | ||
179 | 浄土思想 | 浄土教というものは、インドに古くからある楽土思想をキリスト教の影響による他力本願思想とを、特別な風味のある大乗佛教に混ぜ合わせ、さらに大乗佛教の中に大きく展開した光明思想をその上にかけたものといえよう。 | |
179 | シンクレティズム | シンクレティズム(融合)こそ真の宗教の姿であると言っても言い過ぎではないであろう。 | |
174 | 『スカーヴァティ=ヴューハ』 | 漢訳では「無量寿」の訳語を用いているが、梵語の題名は「極楽の荘厳」とか「極楽の光耀」という意味である。……無量寿という佛名が先にありのちに光明が佛教の中で大きくクローズ=アップされると無量光になり、両者が同一とされたと考えている。猶、漢訳がすべて無量寿の訳語を用いたのは、中国の不老長寿の考えにアピールするためではなかったかと思われる。(参)『極楽と地獄』スカーヴァティ(名の起源) 極楽は娑婆世界から西方に十万億の佛国土を越えて行った向うにあるという。しかし、なぜに西方にあるかという説明はされていない。インドでは古くから楽園は北にあると信ぜられ、ウッタラ=クルという名で呼ばれていた。これが佛教にも採り入れられて『長阿含経』の中の『世記経』などでは鬱単越洲と記され、その楽園の模様がこまかく描写されている。……極楽の描写は明らかに鬱単越の描写を模倣したと言いうる……両者に非常に異なる点は鬱単越には君臨し主宰する神格がないのに対し、極楽では阿弥陀佛がいることである。しかも、極楽の描写でひときわ目立つことは阿弥陀佛の光明である。……初期の佛典において、ブッダを修飾するのに黄金で比喩することはあっても、光明で修飾することは稀である。……光の理念はインドの宗教では珍しい……ヒンドゥ教でのちに太陽神スールヤを主神とするサウラ派が起こったが、かなり後代のことである。また、ヒンドゥ教の主神であるブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三大神を見ても光明で修飾されることはなく、これらの神も光明の存在ではない。 | |
140 | 大衆部発生の真意 | ブッダの死後約百年ほどで、ヴァイシャーリーの修行僧たちは「金銀を蓄えるべきだ」などと十カ条の改革案を出して、教団幹部から拒否されたことがある。これはヴァイシャーリーが当時ガンジス河流域の商業として栄え、在俗の信者である商人たちから金銀などの喜捨があったことを裏書きしている。この結果、改革派の人々は分派して大衆部と称したといわれる。(参)第二回の結集 | |
178 | 他力本願 | 阿弥陀如来に関して、他力本願の思想は明らかにキリスト教の影響があると考えられる。……佛の本願とはキリスト教の恩寵説における「神の恩恵的な恩寵」gratia Dei gratuita と同一思想である。……佛教の本質は自力であり、大乗佛教の成佛思想も自力を基礎としている。それにもかかわらず、阿弥陀佛に関してのみ他力本願の説かれる理由は、佛教の内部では説明がつかない。キリスト教はすでに西暦二世紀にはインドの西北辺に達していたのであり、その後の数世紀にわたって佛教とキリスト教の交流がパルティア王国を中心に行なわれたのであって、キリスト教の外典における佛教の影響は実に大きい。 | |
46 | ダルマ | ダルマ Dharma という語 ―― 一般に「法」と訳される ―― も当時(ブラーフマナ期?)は重要視されず、当時はバラモンを厚くもてなすべしというような「宗教的義務」とか「生活信条」というほどの意味しか持っていなかった。 | |
32 | 転輪王 | 佛教とはブッダをしばしば転輪王にたとえる。転輪王とは天から授けられた輪宝を奉持して四方を征服し、正義でもって国土を統治し、人民を安定させるという君主であり、輪法と戦車の車輪を象徴化したものである。 | |
143 | デーヴァダッタ | ブッダに対して教団内における次の五項目の厳格な実行を迫った 一 森林に済んで、屋根の下に住まないこと 二 托鉢して、招待を受けないこと 三 糞雑衣(捨てられたボロを洗って縫いあわせた衣服)を着て、喜捨された衣服を着ないこと 四 魚や肉を食べないこと 五 牛乳やバターを取らないこと これらの五項目から見て、当時の佛教教団が国王や富豪の援助を得て、相当ゆたかな状態であったことがうかがわれ、事実またそれを裏書きするいくつかのことも伝えられている。 | |
51 | バラモン(真の) | 沙門……ダルマ=ヴヤーダは漁師であり、肉屋であった……「真のバラモンは生まれによってではなく徳行による」と述べ、「怒りと無知を捨てた人、害わなわれることがあっても他人を害わない人、情熱をすべて制御した人をわれはバラモンと呼ぶ」と咏(うた)っている。まさに、初期の佛典『ダンマ=パダ』などに見られる佛教徒の金言と同じであり、初期の佛教徒がこのような苦行者の考えをほとんどそのまま受け継いでいることが知られる。 | |
44 | バラモン二種の神 | バラモンはみずから「二種の神がある。〔古来の〕神は神である。学識がありヴェーダに精通するバラモンは人間である神である。これらの神に対する供物は二種類に分かれる。祭壇に載せるそなえものは神への供物で、祭祀の執行の謝礼金は人間である神すなわちバラモンへの供物である。そなえものによって神を満足させ、謝礼金によって人間なる神すなわちバラモンを満足させる。満足したとき、これらの神は人を幸福に導く」とうそぶいている……。 バラモンは本来宗教者として神に仕えるべき身でありながら、その本分を忘れ、神を操縦し、願望の成就を強要する態度さえとったことが知られる。そして、神はまったく祭式に依存し、神の威力は祭式によってのみ増大すると信ぜられたのである。 バラモンは、自分たちが独占する祭式を最高最勝の神秘とし、宇宙の展開も祭式の力により、神もまったく祭式の力によってその威力と不死性を得るとした。こうして、祭式は神を動かして所期の目的を達成させる原動力であり、人間の福利の源泉とされたが、それだけに一度その執行に微細な過ちが合っても、災いがたちどころに襲来して、破滅の原因となるとされた。したがって、自分の願望を達成しようとして、バラモンに委任して祭式を自分のために執行させる祭主は、もしバラモンが悪意を持って祭式をわざと間違えたり、あるいは意中で密かに呪ったりすることを恐れたので、祭主の一身はバラモンの掌中に握られるという結果となった。神さえ自由にするという祭式に対して、祭式の神秘についてまったく無知識な祭主が抵抗することができなかったのは当然と言わねばならない。ある文献では、「バラモンの言葉は軍事力にひとしく、あらゆる人間も、あらゆるものもバラモンの命令のままであったと」と記している。祭主は数多くの牛やおびただしい財宝をバラモンに贈って、そのご機嫌を取り結ばざるを得なかったのである。 | |
139 | 比丘 | 出家修行者を比丘〔ビクシュ〕「食物を乞う者」と呼ぶ。 | |
85 | 佛教の個人主義 | ||
141 | 布施 | 大乗仏教が展開するようになると、布施は菩薩業の第一に挙げられるようになるにいたる。 | |
140 | 布施の勧奨 | ブッダは在俗の信者にも禁欲・忍耐の徳を説いたが、それはさらに展開して慈悲の精神と結びついて、布施(純粋な気持ちで人にものや金銭を惜しまず与えること)の徳が強調されるにいたった。とくに修行者になにかを与えるということの精神的意義が高く評価されると同時に、自己犠牲の精神を褒めそやかし、それを奨励するようになった。(参)喜捨 | |
135 | 比丘の出身 | (表) (参)良家の息子 | |
37 | 『部衆異論』 | アショーカ王の即位をブッダの入滅ののち百十六年としている……大乗経典などで前述の百十六年の説をもとにして、ブッダの入滅ののちに正法(ブッダの教えが衰微する時代)が五百年続き、像法(正法を真似した法)がさらに五百年続き、その以後が末法の世(ブッダの教えが衰微する時代)としたのは、伝統的な伝承を保持した「説一切有部」の所伝…… | |
54 | ブッダの捨てた二つの方法 | ブッダが修行の過程のおいてヨーガを捨て、苦行を捨てたということである。……ヨーガと苦行とはバラモン教のバラモン教の教権制度から自身を阻害した人々の採った修行方法である。ブッダも出家することによってそのような社会から断絶した。そして、他の修行者と同じようにヨーガによって救われようとし、苦行によって解脱に達しようとした。しかし、それに成功せず、ついにそのいずれも捨てた。そこに、ブッダの立場があり佛教の意義があるのである。 | |
2 | ブッダの出身 | カピラ=ヴァットゥの町から出た世界の指導者(ブッダ)がいる。 彼はオッカー王の後裔で、サキヤ族の子、世を照らす人だ。(『スッタ=ニパータ』) | |
9 | ブッダの人種 | カピラ=ヴァストゥの所在地を含むヒマラヤ山脈の山麓地帯は、古くからチペット=ビルマ族の占拠するところであったことが知られる。かつてイギリスの史学者ヴィンセント=スミスが「ブッダの生まれはモンゴロイドであったらしい」と述べて、ヨーロッパの学者を驚かせた……荒唐無稽な説としてしりぞけることはできないであろう。チペット=ビルマ族こそモンゴロイドの典型的な種族だからである。 | |
116 | 変成男子 | この思想が最も早く明瞭に見らるのは『法華経』の中である。(参)『極楽と地獄』変成男子 | |
20 | マヌ | インド=アリヤン人の祖先はインドの神話ではマヌであるが、マヌ manu という語は元来「人」を意味し、同じくインド=ゲルマン語族に属するドイツ語 Mann 、英語 man と親縁関係にあることはよく知られていることである。この場合、ローマの史家タキトゥス(55-120)が西ゲルマン人の神話的祖先をマンヌス Mannus と記していることは非常に興味深い。 | |
15 | マーヤ | ブッダの母をマーヤといったことは、これまた初伝の一致するところである。 | |
177 | 弥勒 | 弥勒の原名マイトレーヤ maitreya は「ミトラ Mitra に関係のある」という意味であり、ミトラとミスラ Mithra とは元来同じ神である。また、弥勒の神格的性格にはミスラ神の投影が相当認められるようである。さらに、弥勒信仰が中央アジアから中国において大きく展開した事実については、西暦紀元数世紀のころからイラン人が中央アジアに拡がっていた事実を無視することはできないと思われる。(参)『極楽と地獄』ミロク | |
51 | ヨーガの行者 | ヨーガ行者と苦行者と修行方法は異なるがその目的は同じであった。 ヨーガの修行法は非バラモン教的な起源をもつもので、とくにヒンドゥ教のルドラ=シヴァ派の信仰に展開した思想は、このヨーガ行者のなかに育成されたという。 ヨーガの行者は特にムニ(聖仙)と呼ばれるが、ブッダが「釈迦族出身の聖仙」という意味でシャーキャ=ムニと呼ばれるのは、ここに由来するのである。 | |
63 | 欲望 | ブッダの言葉によれば欲望は「再生の原因となる」といわれる。 | |
83 | 律 | 梵語ヴィナヤ vinaya の訳語で「指導」「薫陶」という意味から転じて、指導し薫陶するための「紀律」を意味した。佛教でいう「律」の意味はもちろんこの意味…… 「律」とは出家者に対する掟であり、佛典にもしばしば「俗は聞くべからず」とか「俗人の聞見するところに非ず」と記されている。ここにも、佛教教団の修道団的正確が明瞭に見られよう。 | |
13 | リッチャビ族 | リッチャビ族の王家は……ネパールの支配者となった。『マヌ法典』によると、リッチャビ族はヴラーティヤとされている。 | |
138 | 良家の息子 | 「良家の息子」と訳した語はクラ=プッタ kulaputta であるが、その梵語形クラ=プトラ kulaputra という語は『マハーバーラタ』などでは常に「貴族の子弟」を意味するからである。佛典での用法は少し広く、「富豪・名門・良家の子弟」という意味である。しかも、その後の経典において、ブッダが弟子たちに呼びかけるときは、「僧たちよ」という場合とならんで「良家の息子らよ」と呼びかける場合が多い。これはブッダが弟子たちをおだてていっている言葉ではなく、かれらが実際に良家の子弟であったからこそ、このように呼んだと考えられる。比丘の出身 ブッダおよびその教団は、最初からこのような王族、長者たちだけを相手としていたのであり、またそのような家の出身でなければ出家させなかったのではないかと思われる。 | |
47 | 輪廻と業 | このような考えは現世の生活を前提とするものであり、現状を致し方のないものと考えさせ、あきらめさせる教えであったと言わねばならぬ。 このような輪廻説の起源は、ブラーフマナ文献にいたって現れる再死の説にあって、正しい祭式を行わないもの、祭式を怠るものは、死後ふたたび死を繰り返さねばならないと説かれる。そして、再死に対する恐怖が述べられる。この考えは、一方では不死の間に相続転生の関係を認めて、父が子に生まれ変わるという考えを展開させた。この考えはとくにバラモンの間に強調され、男子の相続者がいないときは祭祀が断絶し、死者は地獄へ堕ちるとされた。妻に男子の生まれないときは妻を離婚すべしというインド法典の規定は、こうして成立したのである。 他方において、祭祀とその恐怖の観念が輪廻説に展開した。ウパニシャッドには明瞭にこの思想が現れ、地上における形態は前世における業によって規定され、善い業によって善人となり、悪い業によって悪人となると説かれ、浄行者はバラモン・王族・庶民の階級に生まれ、醜行者は選民・犬・豚の胎にやどると述べられている。それと同時に、苦行・禁欲・生活・信仰によって死後に「神道」(生まれかわることもなく神となるものの行く道)をたどる者と、そうでなく「祖道」(祖先と同じように生まれかわりをくりかえす者の行く道)を選んで輪廻するものの区別も説かれている。 ブッダの独自の思考方法……その前提にバラモンが培養し完成させた業・輪廻説があることを忘れてはならないであろう。 | |
98 | 『理惑論』 | ||
142 | 『六度集経』 | 呉の康僧会訳 |
P | 項目 | 抜き書き |
---|---|---|
106 | 印 | 印契(いんげい)・印相ともいい、梵語ムドラーの訳で、元来は「封印」あるいは「標識」の意である。インドの古典文芸では一般に宗教儀式に行なわれる指の組み方二十四種の総称である。 |
102 | 恩寵説の完成者・親鸞 | 親鸞の恩寵説では、阿弥陀仏の本願は絶対であり、老少善悪というような一切の相対的なものを否定するのである。阿弥陀仏の本願はわれわれの言語を絶し、われわれの思惟を越えるものであり、ただ「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせ」るよりほかに人間のおよぶものはなに一つないのである。恩寵説という点のみから見れば、親鸞の教えは宗教的に最高であると言っても過言ではないようである。 |
104 | 恩寵説の仏教 | 真宗は大乗佛教であるという主張に固執するかぎり、真宗教学は親鸞の純粋な恩寵説を曇らし汚しているかと思われる。真宗が大乗仏教でもなく小乗仏教でもなく、いわば第三の「恩寵説の仏教」として展開するときに、親鸞の教えは真に宗教として花をひらくことになろう。 |
98 | 恩寵説のわが国の発見者 − 法然 | 法然はこのようにいう。 「それ速やかに生死をはなれんと思はば、……えらびて浄土門にいれ、浄土門に入らんと思はば……えらびて正行に帰すべし。正行の中を修せんと思はば……えらびて正定をもはらとすべし。正定の行とはすなはちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生るることを得。仏の本願によるが故に。」 と。ここに阿弥陀仏の本願は明らかに【ほとけ】の恩寵であることが指摘される。この恩寵をわが国で最初に発見したのは実は法然であった。 |
124 | 喜捨の制約 | 佛教教団の戒律を見ると、在俗の信者からの喜捨を受けるにしても、「貨幣や金銀宝石を受けてはならぬ」とか、「医薬品としてのバター・油・密・砂糖などを七日以上蓄えてはならぬ」というような禁止条項がいくつかある。 |
214 | 貴族化(本願寺の) | 本願寺の貴族化は蓮如ののちに着々と実現していったことが知られる。フロイスの『日本史』によると、天文十九年(1550)ころに石山(大阪)本願寺はキリシタン宣教師を驚かせるほど豪壮な法城であったと言う。また、永禄四年(1561)のころ石山本願寺の城下町である大阪に一泊したヴィレラは、本願寺の法主について 「この人に対する尊敬は非常なもので、ただ彼を見るだけで多くのものは涙を流し苑罪の謝罪を求める。諸人の彼に贈る金銭は甚だ多く、日本の富の大部分はこの坊主の所有であり、毎年甚だ盛大な祭(報恩講)を行ない、参集する者甚だ多く……」 と記している。 |
109 | 祈祷・まじない | ブッダは個人による苦の克服を説いたのであるから、祈祷・まじないなど神秘的な威力によって災禍を免れるという方法を禁止した。しかし、また一方では世俗の慣習を容認していたので、在俗の信者の間に行なわれていた祈祷・まじないが次第に教団の内部にも蔓延した。律のなかに自身を守るための守護呪の使用が記されているのは、その間の事情を物語っている。 |
110 | 孔雀妙王経法 | 鬼霊崇拝と陀羅尼の使用に、さらに民間信仰の諸要素が加わって、仏典が編述されるに至った。『孔雀明王経』はこのような密教経典の初期の代表作である。……平安朝時代に東寺長者(京都東寺の住職)と仁和寺宮(皇族出身の京都仁和寺の住職)のみに許されたという孔雀明王経法は、孔雀明王を本尊として行なう手法で、天変・怪異・祈雨・長雨の止むことの祈願から、さらには役病・出産のまじないに至るまで、あらゆる息災の祈願のために行なわれた。 |
110 | 金剛乗 | 『金剛頂経』の属する左道派の密教はのちに金剛乗として展開し、各種のタントラ経典が編述され、エロティックな行法さえ密教の真実にそうものとして奨励されたことが知られる。その萌芽は『理趣経』などとともにわが国に伝えられ、立川流のごとき一派の成立する基盤になった。密教の神秘思想の核となっている「大楽(たいらく)」とは、実はセックスのエクスタシーを意味することを忘れてはならない。 |
180 | 三衣 | 初期の仏典をみると、比丘はアンタル=ヴァーサス(安陀会)、ウッタラーサンガ(鬱多羅僧)およびサンガーティ(僧伽梨)の三種の衣を持つべき旨が記されている。これを三衣という。それらがどのような衣類であるか詳細は明解でない。 |
128 | 宗 | 窺基(632-682)の『大乗法苑義林章』には 「夫れ宗を論ずれば、崇と尊と主の義なり。聖教に崇むる所、尊ぶ所、主とする所と名づけ、宗となすが故なり」 と述べられている。 |
83 | 浄土 | 浄土を表現する |
178 | 僧 | 僧とはもともと「出家者」であり「乞食者」であった。所かわり時が流れて、現在のわが国では、僧とはそのほとんどが寺院の住職であり、僧侶という職業に従事する人である。よく耳にする言葉であるが、 「女房子どもをかかえているうえに、坊主も人間ですな。食わなければなりません」 という言葉は、現在に生きるわれわれとしては十分に理解できるのであるが、素朴な庶民の尊敬と期待にこたえようとせず商業主義に堕しているのは、不可解であるといわねばならぬ。 「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。」 と、作家の杉本苑子さんんが『西国巡拝記』の「終りに」のなかに書いていられるが、「自身への苦しい埋没の姿勢」をとりつづける作家の言葉だけに、われわれの心にしみ変えるもののあることを僧侶は感得すべきであろう。 |
178 | 僧階と冥加金 | 筆者が僧階とその昇進に関する冥加金の問題について質問したとき、西本願寺の庶務部長の某氏は筆者の質問の仕方がエチケットに反すると咎めたが、これが僧階が金銭に左右されている現実を糊塗している事実に由来する後ろめたさのあらわれであろう。坊主の【みえ】もいい加減にしてほしいものである。 |
234 | 僧学 | これは耳新しい言葉であろう。もちろん、辞書にも見あたらない。というのも、不思議はない。著者の新造語であるからである。 著者は昭和39年11月27日から同年12月11日までの間に6回にわたって「中外日報」紙上に『仏教学を批判する』という一文を書き、現在のわが国の仏教学が抱きかかえている種々の問題をえぐり出してみたのであるが、そのなかで「僧学」という言葉を用いたのである。と言う意味はつぎのようである。 わが国仏教学という学問が存在する。そして、仏教学者なるものがいる。ところが、いわゆる仏教学者の九九パーセントまでが僧侶である。したがって、僧侶なるがゆえに先入観があり、また護教的でないまでも護身的ならざるをえないのではないか。いいかえると、僧侶なるがゆえに身分上の制約があるのではないか。とすれば、そこに仏教の科学的研究がはたしてあるだろうか。ここに疑問を発したとき、僧侶である仏教学者の研究する仏教学なるものは、たといそこに文献的方法を援用したり歴史的考察を加えたりしても、結局それは学問研究の鬘か仮面をかぶった鵺(ぬえ)的な存在にすぎないと言わざるをえないのであろう。そこで、著者はそういう学問をしている人びとすなわち僧侶出身のいわゆる仏教学者を「僧学」と呼んだのである。 ……著者は昭和四十年に『極楽と地獄』という小著を発表した。当時流行の新書版の小著ではあるが、学術的に重大な問題を二三提議しておいた。「浄土」という言葉の変遷など、それである。しかし、いわゆる仏教学者による解答ないしは論評はまだ得られない。 また、著者は最近に淡交社から『観音の表情』という書を出し、現世利益の仏としての観音の成立と展開について、今日までいわゆる仏教学者が触れようとしなかった点を論じた。「讀賣新聞」などには「観音は男か女か」の問題について著者が論じたところを中心に好意的な紹介が見られた。また、昭和四十四年二月二十五日の「赤旗」紙上には、美術評論家の林文雄氏の筆で、 「岩本氏のこの研究はまだ美術史的にふみこんでいないけれども……古代東洋諸民族の精神、思想、願望の反映としての観音を真に芸術史的な光で見なおすためにの学問的基礎工事の一つが、ここに果たされていることを、高く評価したい。」 と、著者が意図したところを十分に理解した紹介が載せられた。著者は一人の学究として褒め言葉だけを期待するものではない。また、わが学会によく見られるような、あたらずさわらずの紹介に満足する者でもない。誤りは誤りとし、疑問は疑問として指摘し、論議すべきことは論議してこそ、学問の発展に寄与しうると信じている。この意味において、仏教学者の率直な意見を期待しても、けっして無理難題をふきかけることにはならないであろうと思う。それとも、著者の小著のごときは歯牙にかける価値のないものなのだろうか。それならばそれで、その旨を指摘してもらいたいと切望せずにはいられない。 「学者には所信に基づいてのそれぞれの見解があっていいはずであり、学的良心に基づく活発な発言はやがてこれからの仏教研究を必ず前進させよう。」 とは、吉田紹欽氏が著者の『仏教入門』に対し「東京新聞」(昭和39年3月25日)に載せられた批評紹介の一節であるが、いわゆる仏教学者の一人一人がこのような考えで所見を発表し、互いに切磋琢磨するとき仏教学の進歩は見るべきものがあろう。現在のように、仏教は科学的研究と宗学を混淆し、批評が発達していない学会の現状が、いわゆる大乗仏教の仏教との間において日常茶飯事として容認されているとすれば、それは大乗仏教の精神を亡失したものと言えよう。大乗仏教成立の背景には、……精神溌剌とした精神があったことを忘れてはならない |
229 | 葬式無用論 | 著者が葬式無用論を唱えているとされるが(『週刊朝日』昭和44年6月27日号)、著者は葬式無用論者ではなく葬式改革論者である(『讀賣新聞』昭和43年11月29日夕刊)。……営利主義が遺族の心を踏みにじり、葬儀の運営にあずかる周囲の人々をあおって、葬式を必要以上に形式化させ華美ならしめるるとすれば、それは当然問題となろう。人間の死という厳粛な事実を前にして、本来宗教者としてもっとも活躍すべき身でありながら、僧侶が商業主義を発揮するとすれば、それは断じて弾劾されねばならない。……葬式改革論は単に一種の社会改善運動であるだけでなしに、宗教者とくに僧侶の態度に警鐘を鳴らすものでなければならない。今日の仏教は葬式仏教であると酷評されるのが常である。しかし、考えてみると、葬式の行事そのものは仏教の本質とはなんの関係もない。インド仏教においては、死者儀礼は仏教のなかになかったことである。……一人の親しい人間の死をまのあたりにした遺族の人々に対して、生死の超克を使命とする仏教がなんの働きかけもしないとすれば、これはまさに不可解きわまることを言わねばならぬ。僧侶がこの機会にこそ宗教活動をすべきことは当然である。事実、一部に、そのような動きのあることも伝えられている。しかし、現在われわれの周囲にいる僧侶と呼ばれる人びとを見た場合、惰性的に僧侶である場合が多いだけに、彼らの宗教体験はあまりにも貧しく、いな信仰体験を持たないものがほとんどであるので、一般の人々の求めにこたえることができないのが実状のようである。結局は、葬儀屋に降りまわされることになるのである。 |
126 | 大乗経典成立の背景 | ……諸部派が興隆したころに、いわゆる大乗仏教の初期の諸経典が成立した。『般若経』・『法華経』・『華厳経』などがそれで、その早いものは西暦紀元前一世紀ごろには成立していたと考えられる。これらの諸経典が成立した事情は明らかではないが、すべて従来の縁起説を改釈した空の概念を基本的な宗教観とし、従来の自利のみに立つ宗教観を発展させて自利・利他の宗教倫理説を説いた。それぞれの経典を所依として各教団を組織していたことも事実である。 また、このころ、ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた。 |
154 | てら | 残念ながら、その語源は明確ではない。『倭訓栞』全編には 「てら、寺を読めり、日本紀に精舎伽藍も〔「てら」と〕とよめり、荘厳のてりかがやく意にや、今の朝鮮語にているといへば、もと韓語にや」 と記し、また『秋斎随筆』には「天竺の蘭若」の略である天蘭の転訛した読みであると記す。なお、『広辞苑』には 「てら〔寺〕巴利(パーリ)語thera(長老の意)の転という。」 と記しているが、南方上座部(小乗)仏教の教会語であるパーリ語の単語がどのような径路でわが国に入ったか、全くわからないし、また「長老」の意のテーラという語が、どのようなわけで「仏像を安置し、仏道修行のための僧尼の居住する建物」の意味を持つに至ったかもわからない。おそらくパーリ語をかじって生半可な知識を持った仏教学者の一人が、音の相似から思いついた説明に従ったのであろう。 |
79 | バクティ | バクティー(誠信)を説くバーガヴァタ教の信仰が西北インドに盛んに行われていた。……仏教ともバーガヴァタ派とも関係の深いヨーガは哲学の基本経典の『ヨーガ=スートラ』はおよそ西暦三百年頃に編述されたと考えられているが、この経典の始めにプラニダーナという語がバクティと同じ意味に用いられている。これは明らかに自力的なプラニダーナが他力的なバクティに解釈し直されたことを意味しており、当時の西北インドにおける宗教思想を示すものと言わねばならぬ。 |
114 | ヒンドゥー経の神が日本のほとけに | ヒンドゥー経に由来する諸神格が外護神として、あるいは諸仏の陪侍として、密教とともにわが国に将来され、現世利益の属性が付加されると、わが民俗信仰のなかに深く浸透するに至った。 |
77 | プラニダーナ | 「決心すること」から「熱烈な願望」とか「誓」を意味する。従って、阿弥陀仏の本願とは、「阿弥陀仏が【ほとけ】となる以前に立てた誓」ということになる。(参)『極楽と地獄』願 |
47 | 弁天 | 弁天は詳しくは辯才天と言い、ヒンドゥー教における雄辯と学問の女神サラスヴァティーが仏教にとり入れられた姿である。したがって、辯才天が正しい訳名であるにもかかわらず、いつの間にか弁財天となり、現在では福徳財宝の神としてのみ礼拝され信心されるに至った。(図)辯才天(『辯財天利益和談鈔』による) |
88 | 平安朝貴族の浄土観 | 平安朝貴族は豪奢な生活環境に生き、華麗壮大な堂塔の輪奐の美を浄土の象徴とし、その雰囲気にひたりながら念仏するという情緒的な浄土観のなかに生きていたことが知られる。 |
215 | 封建制の確立(本願寺の) | 新井白石(1657-1725)が『読史余論』のなかで 「寸尺の地を領せずして、猶国君の富に敵す」 と言い、中井竹山(1730-1804)が『草茅危言』のなかで 「本山に差したる田禄も無〔き〕に、斯く富饒と成るは、全天下の愚民嵩信して、金銀を抛〔ち〕て、富豪の者貨宝を施入すること、土芥の如くする故…… と述べているのも、理由のないことではない。 |
111 | マハー=ヴァイローチャナ | 大日如来の梵語名はマハー=ヴァイローチャナで、原義は「偉大なる太陽」の意である。すなわち、その本源は太陽神で、仏教の三身説からいえば報身仏である。ところが、密教ではこれを法身仏とし、密教教学の根源として本地身または本地法身の大日如来といい、本来の法身仏としての大日如来を加持身また加持受用身とする。 |
85 | ミロク=阿弥陀 | 北魏の太和二十二年(499)の年次のあるミロク像の銘文に「願わくは西方無量国に生ぜん」とみられるように、ミロク信仰と阿弥陀とを同一視し、極楽浄土とトソツ浄土とは同一のところと漠然と信ずるという、きわめて素朴な、しかも単純なものであったことが知られる。 |
118 | 密教の呪縛 | 天台宗と同じく『妙法蓮華経』を所依の経典とする日蓮宗の開祖日蓮(1222-1282)は、親鸞とは異なり、終生台密の呪縛から脱出しえなかった。 |
108 | 六種拳 | (参)六種拳 |
[外国語表記中“*”で示されたものは該当表記がないもの]
仏教に関する文献はあまりにも多い。概説的なもの・歴史的なものを中心にして,最近20年間に出版されて比較的に入手しやすいものにかぎることにした。宗派的な偏見がうかがわれるもの・賛美的なものは省略した。
日本仏教では,
横田健一『道鏡』 | 井上薫『行基』 |
田村円澄『法然』 | 大野達之助『日蓮』 |
赤松俊秀『親鸞』 | 竹内道雄『道元』 |
笠原一男『蓮如』 |
など,日本仏教の代表的人物の伝記がある。それぞれの末尾には『参考文献』が挙げられていて,研究の動向を知り,その端緒をつかむのに便利である。さらに,至文堂発行の「日本歴史叢書」には
平岡定海『東大寺の歴史』 | 石田茂作『東大寺と国分寺』 |
勝野隆信『比叡山と高野山』 | 横田健一『弥陀信仰と浄土教芸術』 |
井上鋭夫『本願寺』 |
など,日本仏教史上における重要な問題をテーマとした専著があり,教えられるところが多い。また,各種の新書の類に,日本仏教に関するモノグラフが多い。例えば,
1. 『仏教入門』(中公新書)昭39.
ブッダの環境と背景を明らかにして仏教の始源を明確にするとともに,仏教が宗教としての展開する過程をたどった。
2. 『極楽と地獄』(三一新書)昭40.
阿弥陀仏とその背景をたずね,仏教で最もポピュラーな極楽と地獄の信仰の展開のあとをインド・中国・日本にわたって追及した。
3. 『観音の表情』京都(淡交社)昭43.
現在,十一面・千手など数多く分化した観音信仰をテーマとし,その分化の由来をたどり,その始源型をイラン系の女神にもとめた。
4. 『仏教説話』(グリーンベルト=シリーズ)昭39.
仏教説話の類型とその展開を論じ,著名な10編の説話を比較文学的に解明した。
5. 『目蓮伝説と盂蘭盆』京都(法蔵館)昭43.
わが国の仏事のなかで最もポピュラーな盂蘭盆に関し,その起源についての通説の不合理な点を説くとともに新説を提唱し、,この仏事の因縁譚である目蓮伝説をインド・中国・わが国の諸所伝をとおして描き,学会未知の資料を発表した専門書。
そのほか若干の専門書もあるが,それは省くことにする。自著はいずれも資料を博捜し,それらを縦横に駆使し,従来の学説にとらわれず,みずからの所論を自由奔放に展開し,百年ののちに知己を求めるものである。