青木新門著『納棺夫日記』に心を寄せて

UPDATE:'00/03/10

 わたしは行き詰まると、なぜか青木新門氏の『納棺夫日記』を読み直す。

 出会いは出版社の依頼で高史明氏の講演テープから原稿を作ったときに始まる。そのなかで、この『納棺夫日記』が引かれていた。文庫版の同書の巻末に載る高氏の『光の溢れる書「納棺夫日記」に覚える喜び』はかなりの部分で手がけた原稿と重複している。

 わたしは生来、日蓮系仏教との関わりのなかで生きてきたから、高氏・青木氏の所属する浄土真宗、とりわけ親鸞については避けて通ってきた。しかし、青木氏の文章も高氏の講演もわたしに強いインパクトを与えるものであった。殊に青木氏が淡々と綴った日本仏教の抱える多くの問題への指摘は、わたしの価値観を根底からえぐった。

 各個人の純粋な信仰心はともかくとして、組識としての宗教は、たしかに病んでいる。そのことを青木氏は葬祭業の、納棺夫という特異な職業に従事するなかで掴み取っていった。現行宗教団体のもつ多くの欠点 ―― それは口に出していうこと自体、謗法といわるものであるから、いわばタブーと記して差し支えのないものだが ―― その前にあって、わたしは頓挫した。しかし、氏は忌避される職業を励行して、仏教の本義の一端を垣間見たのである。そして、得たものは冴え渡る光の世界であった。

 氏が題材とした親鸞について、岩本博士は「恩寵説という点のみから見れば、親鸞の教えは宗教的に最高であると言っても過言ではないようである」と記した。また、青木氏もその光の世界を具さに記している。わたしは親鸞の信者となることはないけれど、いまの仏教僧侶は、ある意味で親鸞の後おいをしているに違いない。

 公然と妻帯に踏み切った親鸞。いまは大半の僧侶は妻帯しているから、そのあとを継いだことになる。また、親鸞は葬式には興味を示さなかったが、その系脈は民衆のなかに入り、主に葬儀に関わって生活の糧を得た。現在の寺院もまた、葬儀・法要と墓地管理を事業の柱としているから、親鸞系の後おいである。もっとも、このように記せば法華系に属する僧侶は憤慨するであろう。こう書くわたしも、かつてはその僧侶の顔色を気にした。しかし、もう仏教を職業にして恥じない人々の顔色を気にする必要もないであろう。まして、膨大な利益を上げる新興宗教団体など、『宗教法人法』の範疇において合法的であろうと、仏教を企業として営利追求する姿は浅ましくしか映じない。わたしはいまの企業宗教、職業聖職者のなかに仏教が見えない。

 思えば仏教は金銭に触れた瞬間に堕落したのである。それは釈尊滅後、百年に既に始まっていた。科学は戦争によって発達し、仏教は金銭によって発達した。これは偽らざる事実なのであろう。しかし、その発達は精神面の後退を意味したのである。

 それでも、青木氏はなにかを掴み取った。寺院に招かれて講演を重ねているという。いわば、僧侶の前で講演をしているのも、故のないことではない。世間の風評は青木氏をして、浄土真宗の敬謙な門徒であるとか、親鸞の信者などと称する。しかし、『納棺夫日記』に書かれた光の世界は浄土真宗という組識、風習を超え、親鸞までも超越して、さらに上限の世界に迫っている。もし、青木氏が垣間見たものを“さとり”といえば、もはや、それは宗派も、教祖も超越した光の世界への到達と見える。そこでは巷間、宗教と言われる組識も人間も霧散している。

 そしてそれは、形而上学的な信仰の世界というより、人間の精神が到達し得るカタルシスの上限に程近い、心の獲得と映ずるのである。

 わたしは、すべての仏教信仰者 ―― 僧も俗にも、宗派を問わずに、この書を読むことを薦めるものである。

 わたしは、すべての仏教信仰者 ―― 僧も俗にも、宗派を問わずに、この書を読むことを薦めるものである。

いわたちせいごう


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