『宗教の自殺』(PHP研究所)梅原猛・山折哲雄
抜粋文
19山折)「一闡提」という言葉の意味は、仏法を誹謗する人間、すなわち異端の徒である。仏教の伝統でも、異端排除の議論があったわけだ。異端の徒は悪人であるとして成仏させてもらえなかったのである。仏教は一面で善悪を超える一元的な救済思想すなわち成仏論を主張しながら、同時に善悪二元論的なものの考え方をひそかに導入していたということができるだろう。
37山折)儒教であるがそこでもまた、さまざまな徳目や価値が説かれており、たとえば仁義礼智信の五常、孝行や忠義などの五倫の考えが日本にもたらされた。しかし一般の日本人が儒教の教えの中から受け取った徳目として最も重要なものは、自己修養ということだったのではないか。人生における自己訓練の重要性ということである。
ルーソ・ベネディクトは、有名な日本人論『菊と刀』の中で、「日本人の自己修養」という章を設けている。日本人は、スポーツや教育、あるいは経済活動などの日常生活において、つねに自己修養ということを大事にしていると書いている。儒教の日本人的な特性はこの修養という考え方にきわまるのではないだろうか。ベネディクトは日本人のうちに見るべきものをちゃんと見ていたのである。
64ルサンチマンが国家の改造という方向に向けられていったという点で、麻原の行動パターンというのは日蓮の場合とよく似ている。
世紀末の意識がそこに働いていていたということもあるかもしれない。追い詰められているという感覚が異常に肥大化していったといえるでしょう。
また、日蓮といえば、麻原彰晃の自己認識の仕方が日蓮のそれに非常によく似ているような気がします。
109山折)秀吉は、確か遺言の中でだったと思いますが、自分を八幡神として祀れといっています。秀吉は八幡神になりたかったのです。ところがそれを朝廷が許さなかった。八幡神は、源氏の氏神であると同時に、朝廷の守護神でもあり、そこまで秀吉を祀りあげることはないだろうと横やりが入るのです。それで結局、かれは死んで豊国大明神になった。
129山折)儒教には、忠君愛国から親孝行、兄弟仲良くしろといったことまで、いろいろなレベルでいわゆる仁義礼智信を強調するところがあるわけですが。ただ、そのような儒教のものの考え方あるいは世界観から、一般の日本人が、何を一番大事なものとして受け取ったかというと、前にも述べたように私は修養ということではなかったかと考えているのです。人間は、どんな人でも修養することによって立派になれるのだという道徳観みたいなものが、知識階級ばかりではなく一般の町民、農民に至るまで浸透した。
修養を積むことによって、人は期待される人間になることができる。期待された人は、その期待を裏切ってはならない。これが修養を積んだ人間の基本的倫理観ということになります。日本の村落において、裏切る人間は最悪であるという考え方は、ここから出てきていたのではないか。先程の嘘をついてはいけないということとも関係しています。
144日本人というのは、神を信じる代わりに人を信じてきた民族なのではないかと思いますが、どうでしょうか。人を信じるとは、人の思いとか願いとかをおもんぱかるということです日本人においては、相手を見る眼差しが、相手の心を見てしまうということがあります。堕から不幸な人間の怒りや恨みに非常に敏感に反応する。
日本は、そういう文化をつくってきたのではないか。基本に、どうもやっぱり、神仏信仰といいながら、そういう意味での人間信仰があるように思います。そしてそれが日本人の菩薩行、利他行に発展していくのです。そこのところがインド伝来の仏教の菩薩行や利他行とやや違う。しかし他方で、いくら人間を信ずるといっても人間というのはしょせん人を裏切る存在です。これが人間信仰文化における悲しいところですね。カミの代わりにヒトを信じてきた日本社会のジレンマです。ヒトを信じようとして、しかし信じきれないから、そこに無常の風が吹くということになるんですね。日本的な無常観の特色がそこに見られると思うのです。
153山折)日本人はヨーロッパから、平等とか博愛とか自由などを学びましたけれども、これらは仏教にないわけではない。仏教にないのは、個人主義だけだった。個人主義は、日本人が西洋思想の中から受け取った最大の贈物ではないかと思います。
この西欧からいただいた個人主義と、儒教からもらった修養、それに仏教から受容した無常観を統合しますと、何とはなしに日本的風土における成熟する人間≠ェ見えてくる。そういう人間のあり方に高い評価を置いた日本人の倫理観みたいなものを、私は私なりに感ずることができるし、納得できるのです。日本社会においては、未熟な人間≠ノ対しては、かなりきついところがあります。
154梅原)日本には、私たちの父や母の時代までは、日本の習俗と仏教や儒教が結びついたある種の倫理観が残っていたのだけれども、…それがやがて国家主義の集約されて、しかもそれさえも昭和二十年に戦争に負けて、否定されてしまった。
170梅原)日本人は戦後、倫理をつくらなかったのではなくて、そういうものは必要がないのだと主って生きてきたような気がします。倫理とか哲学などは、戦後の日本人にとって無用の長物だった。人間とは何かなどと、改めて問う必要はないのだ。人間とは、物質的な幸福を求めていきる動物であるというぐらいで、結構である。そういう哲学無用論が、戦後ずっと支配してきたのだと思います。
176先祖崇拝こそ日本人の根本――梅原)柳田国男が『先祖の話』を書いたのは、昭和二十五年、戦後直後のことです。日本は戦争に負けていろんなものを失ったが、先祖崇拝の気持ちまで失ったら、もう日本人は日本人でなくなってしまうと、非常に危機意識をもって書いています。
206梅原)既成仏教が葬式仏教に陥っているという批判はよくいわれることである。清沢満之の思想によって生まれた葬式仏教を脱却せよという東本願寺の改革運動は、確かに一定の成果をあげたことは間違いない。参)葬式無用論
209梅原)わたしは日本の神道は国家主義の呪縛から脱却するのが何よりもまず必要なことであると思う。明治以来百年間を支配した神道は、却って神道の魂を殺したのである。
210既成の宗教によって点火されなかった宗教心に新興宗教が火を着け、人々を巨大な信仰集団の徒にしたことは新興宗教の功績であり、それ以外に救われる術がなかった人々をして、心の安定を得させたことは高く評価されるべきであろう。
しかしながら、私にはこの新興宗教がたちまちに金集めの組識に変化することに深い憂慮をおぼえるのである。新興宗教がある程度大きくなると、必ずその教祖を絶対者として、神あるいは仏の再来としてあがむ。そして教祖をピラミッドの頂点とする教団を拡張することが最大の善と考え、そのために猛烈な金集めが行われる。そのことが私は、大きな疑問なのである。……
宗教の教祖というものは、多かれ少なかれ詐欺師の能力を持っているといえる。詐欺師はというのはいささかいい過ぎであるが、あるいは役者の才能といってもよいかもしれない。つまり、ひょっとしたら間違っているかもしれない自分の教説を百パーセント真実であると思わせる才能である。そのためには自分自身が自分の教義を百パーセント信じなければならないが、このような才能を持たない人々は、決して多くの人に影響を与える宗教家になれない。
しかし、真の宗教家は自分の詐欺師的な才能に十分警戒している…。


HPわたしの抜き書き集