『日本の仏教』(岩波新書)渡辺照宏

項目抜書き
34栄西の逸話「故僧正(栄西)建仁寺におはせし時、独りの貧人来りて云く、我が家貧ふして絶煙数日におよぶ。夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲を以て是れを救ひ給へと云ふ。其の時房中に都て衣食財物無し。思慮をめぐらすに計略つきぬ。時に薬師の像を造らんとて光の料に打のべたる銅少分ありき。是れを取て自ら打ちをり、束ねまるめて彼の貧客にあたへて云く、是を以て食物にかへて餓をふさぐべしと。彼の俗よろこんで退出しぬ。時に門弟子等難じて云く、正しく是れ仏像の光なり。これを以て俗人に与ふ。仏物己用の罪如何ん。僧正云く、誠に然り。但し仏意を思ふに仏は身肉手足を割きて衆生に施せり。現に餓死すべき衆生には設ひ仏の全体を以て与ふるとも仏意に合ふべし。亦云く、我れは此の罪に依て悪趣に堕すべくも、只衆生の飢へを救ふべしと云々。」(『正法眼蔵隋聞記』第二)
そして道元はこれに附け加えて「先達〔先輩〕の心中のたけ今の学人〔修行者〕も思ふべし。忘るゝこと莫れ」と言っている。
105回向仏陀を理想としている努力しつづけているボサツたちは、自分の持っているすべてのものを、衆生に与え尽くすものであるから、自分の過去のおける自分の善い行為の報いまでも、衆生に譲ってしまう。こういうところから、廻向(回向とも書く)という思想が生じた。これは「さしむける、引き渡す」という意味であって、自分の善行の功績を他人に譲りわたすという意味に用いられる。
118道元によれば、出家たるものは、もちろん父母の恩を忘れてはならないが、特定の日に、特定の一人だけのために廻向するのは仏の意にそわないのではないかという。
107火葬(の批判)経済学者として知られる大月履斎は次のように論じている。
「仏法の害、今更弁ずるに及ばねど、中に悲しきことは、火葬なり、釈の道昭寂して、己が尸(しかばね)を火葬にせしより、事行なはれて、世々の天子さへ火に入し世もあり、申(もうす)も勿体なし……それより以下は、今に盛んに行なはれて、風にもあてがたき君父の体を猛火の中へ入れて、灰土とすること、臣士たる者、いかに仏の道に迷へばとて、本心是をこころよしと思はんや」
52寛容慈悲と関連して仏教の特色に寛容ということがある。一神教的などの宗教では自分の教理と異なるものを異端とか邪教とか言って悪魔の如く忌み嫌う傾向がある。しかし仏教は特殊の教理を人に押しつけるものではなく、各自が内面に具えている潜勢的な菩提心を目ざめさせて、人間の完成に至るように指導することを眼目とするものであるから、たとえ異なった見解や信仰形態を持っていても一概に排撃することはしない。むしろ各個人がすでに持っている信念や体験を生かせて、向上を可能にさせる。だから一見して迷信のように見える信仰形態、ことに家や部族固有の信仰などはこれを正面から攻撃せず、むしろそれを媒介として高級な宗教体験へと進ませる方式がしばしばとられた。(この一つの点だけから見ても〈謗法ばらい〉〈折伏〉などと称して強制的に改宗を迫る日蓮宗の一派の態度などは仏教的と言われないことがわかる)。
115戒名今では人が死ぬと法名または戒名といって別の名がつくが、法名、戒名は仏教の信仰に入ったしるしとして附けるのが、中国や日本の風習であった。近世になると、死んではじめて特別な名をつけることが一般に行なわれた。キリシタン改めの関係上、死ねば必ず仏教の儀礼を用いることになり、その習慣が現在まで続いている。
29戒律戒律のない仏教はありえない、しかも釈尊が教えたそのままの戒律を守るのではなくては仏教の僧侶という資格はない
136日本ではあまりにも外面的な形式にこだわりすぎた。仏教的生活に入ることを誓う儀式が受戒であり、儀式の場所が戒壇であるが、日本では、職業的僧侶として登録されることが受戒であり、登録所が戒壇ということになった。自己の意識によるよりも、むしろ、職業的義務として、戒律を守ることが要求された。したがって、戒律そのものも形式的になった。
158戒律(一般僧侶)一般僧侶の戒律はすでに江戸時代にも甚だしく弛んでいた。幕府の定めた罰則によって、辛うじて表面だけを保っていたのである。明治新政府が、肉食妻帯勝手たるべしという布告をしたとき、僧侶はもはや戒律を守る必要がなくなった。戒律を守るものはむしろ例外で<律僧>とよばれた。公然と妻帯することを避けたとすれば、それは信者の前に呪術的能力を装うためであった。
もちろん、現在でも厳重な戒律生活を守っている少数の真剣な僧侶がいる。東南アジアの上座部仏教の系統を学んで、古いインドの戒律を復興しようと試みている人もいる。あるいはむしろ、戒律を問題にしないことが日本仏教の誇りであると論ずるものさえいる。
これでよいのだろうか。シャーキャムニも入滅のすぐまえに「汝たちの希望によって細かい戒律の個条は廃止してよい」と遺言された。弟子たちは、どれを捨ててよいかわからなかったので、前から教えられたとおりにそっくり守り続けることに定めた。したがって世の中の事情が変われば守れない条項が含まれていることも事実である。たとえば、午後に食事をしないということも難しいが、金銀(金銭を含む)を所持しないという規定などは、今の世の中では実行できない。したがって時代に相当した変更も必要になる。またシャーキャムニの時代にはない習慣で戒律の条項には入っていないが、仏教の立場から見て当然禁止されるべきもの、たとえばタバコや麻薬の禁止などは新たに加えられるべきものであろう。誰がそれをきめるか、という点に問題があると言うかも知れない。だが根本的なことは、、悪いことをせずに善いことを実行する<諸悪莫作 衆善奉行>という仏教の基本原則なのである。道徳的な実践の伴なわないところに仏教はない。<聞法>だけでは仏教にはならないのである。
104カミ死んでから、ある期間をすぎると、死霊はその地位に安じて祖霊になる。これは死体が、あとかたもなくなる時期に相当するようである。こうして「カミ」になり、「先祖」になって個性を失い、それからのちは家や郷土の守り神として、子孫の幸福安全をはかってくれる。祖霊は遠い世界に去ることなく、近くにとどまって子孫の生活を見守っている。そして毎年時を定めて家に戻ってくる。その時に子孫は食物を供えて祖霊を喜ばせる。(参)ホトケ
123神(その変遷)第一段階−−人間と神々とは程度上の差にすぎないと見て、<人天>と一口に言う。その国をわが国に移したものである。……日本の神々は人間と大差のない地位にあり、ただその能力が人間以上であるというに過ぎない。神々は仏に奉仕し、仏から救済を求める。
第二段階−−神々の仏教の守護神であるという考え方は後世にも残っている。しかし、それに飽きたらない考え方も平安中期以後にあらわれた。
第二段階においては、神々は本来、仏と同じであると認められた。神々は本来、仏そのものなのであり、それがわが国において神として出現したというのである。
第三段階−−個々の神々が、それぞれの特別の仏、菩薩の出現であるとして分化されることになった。そのもとの仏、菩薩を本地、神々としての姿を垂迹といい、この説を本地垂迹説というのである。
第四段階−−国民思想が強くなると、第四の段階として、わが国の神のほうが本地であり、仏の方が垂迹であるという考え方があらわれてきた。これは十四世紀ごろのことである。しかしこの神本仏迹説は神道系の一部の学者の説にすぎず、実際の信仰問題としては、あまり影響がなかった。
161観法・観仏インド仏教において著しいことは、坐法と呼吸の調整(数息観)のほか、観法(特定の問題を考察する)と観仏(仏陀の姿を心に描く)とであった。
75金銀中国から日本に来た仏教では色とりどりの衣のうえに金襴の袈裟を掛けることさえした。インドの僧侶は金銀を身につけることは絶対に許されない。
75形式主義(日本の仏教の)日本の仏教の一面には、実質を忘れて形式主義に陥るうらみがあった。インドの仏教教団は簡易な生活様式を尊び、僧侶の衣は柿色の一色で、所持品も生活上必要な最少限度にとどめられていた。他人に見せる儀礼などは行わなかったから、外見をつくろうことはなかった。
40行動不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。
82国家権力と仏教国家権力を度外視して、もっぱら純粋な修行にはげむというのが、本来の仏教の立て前であり、道元が受けついだ正しい伝統であった。
143宗派宗教団体としての宗派という枠は隋唐代にはじめて成立したものである。
141宗派(インドの)インドには、日本仏教の宗派のようなものは、かつて存在したことがなかった。
141宗派(中国の)中国で最初の宗派は、六世紀後半にできた智■の天台宗である。
141宗派(日本の)日本では、すべての寺院および僧侶は、いずれかの宗派に属することになっている。単立寺院を名乗る場合には、たとい一寺院でも一宗派である。檀信徒も、どこかの寺院に所属し、その寺院を通して、特定の宗派の檀信徒である。これは江戸時代にきめられた制度の惰性にほかならない。
146宗派(鎌倉時代)鎌倉時代の信仰宗派はいずれも、独立の宗派としての存在を公認されるために苦心した。浄土宗・臨済宗・浄土真宗・日蓮宗みなそうである。ただ道元ひとりは断固として、宗旨を唱えることを拒否した。
「おほよそ世尊在世、かつて仏宗ましまさず……釈迦牟尼仏、ひろく十方仏土中の諸法実相を挙拈〔とりだして〕十方仏土中をとくとき、十方仏土のなかに、いづれの宗を建立せりととかず。宗の称もし仏租の法ならば、仏国にあるべし。仏国にあらば仏説すべし。仏不説なり、しりぬ、仏国の調度にあらず。租道せず、しりぬ、租域の家具にあらずといふことを。ただ人にわらはるるのみにあらざらん、諸仏のために制禁〔禁止〕せられん、また自己のためにわらはれん。つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(『正法眼蔵』仏道)
90呪術シャーキャムニは在家の信者に対しても、また出家のビクに対しても、直接の害のないかぎりは呪術を禁止しなかった。
98呪術の主な目的は息災(病気などの災難をまぬがれる)、増益(商売繁盛のこと)、降伏(敵をたおす)の三種類であると言われるが、降伏は今でも戦争のときなどに用いられる。
138呪術(と独身)明治以降、肉食妻帯勝手たるべしということになっても、多くの僧侶は表面は独身を装っていた。呪術祈祷を看板とするものはことにその傾向が強かった。そのための私生子の数も少なくなくないようである。
56信行 中国では南北朝の末から意識されてきた末法思想を明確な信仰形態としてはじめて打ちだしたのは六世紀末、三階教を唱えた信行であった。
88崇伝
172真言宗理論的な教義(教相)とならんで実際的な修法(事相)を重んずるのが真言宗の特色である。
173真言宗の実際的意義空海の生涯の活動において具現されたように、教相と事相とを一丸として、民衆の生活の精神的、物質的両面を向上させること以外に、密教の実際的意義はないと言ってよいであろう。『大日経』にも「菩提心為因、大悲為根本、方便為究竟(菩提心が原因、大いなるいつくしみの心が根本、実際的指導が最高である)と言う。
138世襲近ごろでは世襲の傾向がますます強く、そのうえ旧来の徒弟制度によって特殊社会を形づくっているので、いわばカーストともいうべき教団が成立した。
160仏教ではヨーガ(瑜伽)、ドャーナ(禅)、サマーディ(三昧)はほぼ同じ意味に用いられる。
162禅(日本天台宗まで)道せんから禅と律とを受けた行表が、唐に渡る最澄に禅を授けた。
119葬儀仏教の発生古くから天皇や貴族のために仏教の僧侶は祈祷も死者儀礼も営んでいた。しかし旧仏教の諸派は葬式法要の料金に頼る必要はなかった。ところが鎌倉時代以後に新しい事態が発生した。
貴族の保護もなく、不動産の収入も持たない信仰宗派、ことに浄土系の僧侶たちであった。彼らは現世利益を否定する立場上、祈祷による収入を期待することはできなかった。彼らに残された唯一の道は葬式法要の料金であった。
101聖者崇拝聖物崇拝に関連して、聖者崇拝も呪術信仰の一種と見られる。日本人は一般に英雄崇拝の傾向が強いが、宗教的内陣との接触によって超自然的な力を獲得するという信念はいろいろな面であらわれている。お上人さまの衣の裾にふれただけでも病気が治るというような信仰はイエス・キリストの当時と同じく、現代の日本人のあいだにもある。日本人の場合には事大思想が強いから、大本山、大寺院の法主、門跡などに対する信頼が大きい。真宗などで行なわれる〈お髪剃(こうぞり)〉もそれで、民俗学者のいわゆる共感呪術の接触の法則によるものと言えよう。浄土真宗のように、呪術を禁止した場合には、個人崇拝が呪物崇拝の代用としてはねかえってきたものとも見てとれる。
88天海
136独身僧侶としての特権を保つために、独身と政情が必要とされた。身を清浄に保つことは、呪術の効果にとっても必要と考えられていた。
87仏教(徳川時代の)「徳川時代に於ては仏教に対して整然たる法度を以て規定し……これが為に制度の固定となり、従って凡てが固定して萎縮沈滞となり、溌剌たる生気が欠け、其風が現今にまで及んで居る……天主教は禁ぜられて居たが、島原の乱以降は、殊に此禁を厳重にし、其結果、宗門改めを厳にして、宗旨人別帳を作り、之を寺院の為すべきこととし、寺院と檀徒との関係結合を密接にし、婚姻、死生、旅行に至るまで、一一所属寺院の勘校検察を受けることとした。此の如きことは仏教の趣旨から見れば甚だしく相違することで、政治統制の必要から出たものであるが為に、仏教は政治に左右又は利用せられたもの、殊に仏教僧伽の性質は全く改失せられたものである。寺檀の結合は他国に例のないことで、之を衣食の方面に利用したから、其結果は清新溌剌の気風を散亡せしめ、偸安姑息に沈滞せしめるに至ったのである。此の如き干渉保護も全く我国のみに存することで、古来多少かかる風習があったとはいへ、此時ほど甚だしくはなく、全く我国仏教にのみ特有のことである」(宇井伯寿)
このようにして国家的統制のもとに宗派組織・檀家制度が固定化されたわけである。この仏教政策を立案し実行させたのは臨済宗の崇伝である。この名は現在の仏教制度の創案者、すなわち仏教寺院の堕落の最高責任者として記憶される。彼の競争者であり、家康・秀忠・家光の三代にわたって宗教顧問であった天台宗の天海は、主として天台宗の勢力拡張につとめ、日光に東照宮を造った。こうした政治僧たちによって幕をあけた江戸時代の仏教史が、悪僧の活躍によって汚されたのも偶然ではない。
143仏教教団(インドの)インドの仏教教団は出家者の集まりであって、原則として国家統制の外にあった。
68仏教の根本 仏教の根本は教理ではなくて、自己と他者の完成のための実践なのである。
185法華経(インドの)インドでは『法華経』を中心とする学派はついになりたたなかった。この経典は「文芸の作品のうちではもっとも手ひどく考へることを拒絶する種類のもの(和辻哲郎)である……
183法華経の成立いつの頃か、『法華経』の原型に当たる特殊な信仰形態を持った一つのグループが存在していた。彼らは「この教えを信仰し、宣伝に協力するものは、すべての苦しみを逃れ、病気も治り、火にも焼けず、水にも溺れない」と言って信者を集めた。その信仰の強さを示すために、自分の身体に油を注いで火をつけるものさえあった。その執拗さに耐えかねた人々が、それを非難すると「法難だ」と叫んで、ますます結束を固くした。そして自分たちで『法華経』という名の経典を作成した。一般の人々、ことに仏教の正統派の僧侶たちは大いに迷惑して国王・大臣・僧侶・一般市民に訴えた。しかしこの狂信のグループは「命も入らぬ、教だけが大切だ」と叫んでますます活動を続けた。こうしてグループは発展し、『法華経』も新しい章節を書き加えて現在見るような形が成立した。
117ホトケ使者のことをホトケと呼ぶのも日本的な考え方である。ホトケという日本語の語源については問題もあるが、サンスクリットのブッダ、漢語の仏陀に相当することは間違いない。すべての人が死んで仏陀になるということは仏教の考えにはない。仏陀は人間がその理想を実現した状態なのであるから、死んだからといって仏陀になるとは言えないはずである。これもやはり日本人的思惟から来ているので、……人が死んで一定期間がたつと、祖霊となり、カミよばれる。このカミという言葉をホトケに置きかえたのが今のような言い方になった。言葉は仏教でも、内容は民族信仰そのものなのである。〈成仏〉というのも、仏陀になるという意味ではなく、不安定で危険な死霊が、祖霊になっておちつくということにほかならない。怨霊の場合には〈成仏〉してもらうためには、特別な宗教儀礼が必要となる。こういうところから、日本では、民族信仰の土台の上に、仏教的な装いをつけた死者儀礼が発達した。(参)『日本史から見た日本人』
110死者の霊が時期を定めて子孫の家に訪れるという信仰は古くからあった。盆というのは仏教の盂蘭盆会の略だということは一般に知られているが、近頃の民俗学者の説によると、それとは別に古くからボニという言葉が行なわれていたという。名称はともかくとしても、内容から言えば、盆は仏教渡来以前からあった日本人固有の信仰の名残である。
167密教の儀礼密教の基本的な要素をなす儀礼は、その根本となる考え方なり、形式なりにおいて、古代インドのヴェーダの宗教と共通するものがある。ヴェーダの宗教の儀礼の中心は、供養によって、神々からさまざまな利益、たとえば繁栄・健康・長寿・家畜の繁殖、男子の子孫を得ることなどであった。ヴェーダの祭式もさまざであるが、基本的なものは火祠(ホーマ、護摩)である。火は祭主と神々との媒介として、供物を天上に運ぶものと考えられた。起源的に言えば、火の浄化的な魔力に対する信仰でもあろう。
170密教(最澄への伝授)八〇四年に唐に赴いた最澄は浙江省越州の竜興寺で、順暁から密教を伝えられた。順暁は一行の弟子であるという。最澄は帰国後、天台宗を開いたが、密教を重んじ、年分度者二名のうちの一名を密教の研究にあてた。
170密教の伝播(中国への)中国に本格的な密教が伝えられたのは八世紀のはじめ、玄宗皇帝の治世であった。インドから中央アジア経由で七一六年に長安についたシュバカシラシンハは中国名、善無畏として知られているが、『大毘る遮那成仏神変加持経』を訳した。ふつう『大日経』として知られている真言宗の根本経典がこれである。弟子の一行が編集した註釈『大日経疏』はこの経典を理解するのに必要とされている。
66四つの類型 私は日本で仏教を受けいれた人々の態度について、四つの類型に分類してみた。
第一類−−どこまでも仏教の本格的な形態を追及しようという意図をもって、真実を求めた人々。語学的にも、修行のうえでも、多くの困難を克服して、理論と実践の両面において立派な成績をあげた。その真実性は今日の比較研究の知識に照らしても見事なものであるが、彼らの民衆に対する生活態度からみても、シャーキャムニ以来の精神を実現したと言うことができる。
第二類−−同じくシャーキャムニの相談の伝統を生かして無我を極端なまでに実践した。この人たちは一寸見ると消極的なように見えるが、実は理論的実践的に確実な根拠のうえに立ち、高潔な生活態度によって民衆の心を明るくし、また生活も助けた。
第三類−−危機意識の立場に立って自己の観念的安心感を第一義とし、数ある仏教の傾向のうちから今の時期にもっとも適当と思われる特殊なものを選びとった。この立場は歴史的観念的根拠が乏しいとともに、こういう説の唱導者は多くは民衆に寄食し、進んで民衆の実生活に寄与することが少なかった。
第四類−−歴史的教理的の知識は二の次にして、ひたすら民衆のために努めた。したがって理論よりも実践の面で民衆を助けることが多かった。この人たちの生活態度は仏教本来のものと通ずると言える。
このような四つの類型に入る僧侶はとにかくも、自分の確信にもとづいて、生涯のあいだ真剣な努力を続けてきた独創的な人たちばかりである。……
しかしなおその他に、これらの類型のどれにも属しない無数の僧侶がいる。それは、他の人があらかじめこしらえてくれた宗派という枠の中に住んで、いわば惰性で生活している人々である。その多くは天職について何らの感激もなく、新たな境地を開拓することもなく、ただ先人の業績のうえにあぐらをかいて坐食しているわけである。
53来世観(中国の)中国に来ると別の来世観と結びついて、浄土に生まれること自体が人間の窮極的な理想であるという考えも出てきた。
53来世観(日本の)その思想(前項)が日本に来るとさらに簡易化されて、生理的な死と、極楽往生と、成仏という三つのことが混同されて、しかも僧侶の営む宗教儀礼によってこれが実現されるということにもなった。死人をホトケ(仏)といい、読経や念仏をもって菩提をとむらうというような言い方が何の疑念もなく受けとられるという点まで堕落したのである。このようにして、人間の理想の実現の追求という仏教の根本理念が、死霊の儀礼という行事とすりかえられるということにさえなったのである。


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