トップページへ戻るUPDATE:01/01/24


「脱カルトとは何か」と問われるとき、「苦悶の選択であっても真実を見つめる勇気を持つこと」と、わたしは答えています。

  ここではその視点から記そうと思います。これは本来、別項に設けた『わたしのカルト体験』の後半部に属する内容です。本来であれば、順番に書き足していくべきなのです。けれど、近年にいたり、仏教系グループの動向はにわかに騒がしくなってきました。わたしは仏教畑で育ちました。そのようなことから、いまグループに所属している人に、そして、脱会した人に、読んでいただきたいことがあり、跨節(かせつ)して書くことにしました。

  この原稿は現在進行形のものとして、公開して書いていきます。いつまで続けられるか、完結を迎えられるかはわかりません。しばしば行き詰まり、あるいは推敲し、全体を大きく書き換えるときもあるかも知れません。しかし、それがまた、わたしの苦悶の選択であり、真実を見つめる勇気であるとご理解いただければ幸甚です。



◇崩壊した仏教神話

 ここ100年間、日本の仏教界は、科学的に証明された事実を見ない振りをして過ごしてきました。その傾向は、カルトにおいてはさらに顕著です。

 先にも記しましたが、わたしは仏教畑のなかで育ってきました。もう少し詳しく言えば、大乗と言われる仏教派中、『法華経妙法蓮華経)』を信奉するグループのなかで永年にわたり、学び、実践を繰り返してきたのです。20代になるまで教え込まれたことには、一片の誤りもなく、唯一絶対の真実であると頑なに信じてきました。

 わたしが信じていた教えの概観を記しておく必要があるでしょう。大雑把ですが以下のように信じていました。

-今後もたびたび、“かつて信じていた内容”を示すことになると思います。その場合は以下のようにゴシック体で記述することにします-

 …いまから3000年前、インドにお釈迦様が誕生された。30歳で悟りを開き、80歳まで教えを説き続けた。最初に『華厳経(けごんぎょう)』を説き、次に『阿含経(あごんぎょう)』『方等経(ほうどうきょう)』『般若経(はんにゃきょう)』、そして、最後の8カ年で『法華経』(『涅槃経(ねはんぎょう)』)を説いた。この『法華経』こそ、真実の教えである。『大集経(だいじっきょう)』によれば、お釈迦様が亡くなってから2000年を経過すると、教えは効力を失う末法の時代になる。そのとき、新しい仏様と菩薩群が現れて真の教えを説く…

 これが基本的なコンセプトでした。法華経系グループ、ことにカルトと目される団体において教え込まれ、信じられている教理は概ね以上の形となっています。末法に出現した新しい仏様の許で、真の教えを広める菩薩に自分たちを重ね合わせているわけです。そこには計り知れないヒロイズムと使命感が内在しているわけですが、その論考は他に譲ります。わたしがいまここで問題にしたいのは、そもそも、上述のコンセプトは正しいのか?という点です。

 少し詳しく述べたいと思います。3000年前に亡くなったお釈迦様、その教えの効力は2000年で、そこから末法が始まったと言います。そして、2000年から2500年のうちに新しい仏菩薩(ぶつぼさつ)が出現し、新たな教えを弘(ひろ)める。これは広宣流布(こうせんるふ)と言われています。

 鎌倉時代は末法の始めに当たる…、少なくてもいまから100年ほど前まではそのように固く信じられていました。しかし、現在、お釈迦様が亡くなった年代は500年ほどあとのことであることが、ほぼ学問的に証明されています。つまり、鎌倉時代は、まだ末法になっていなかったことになります。

 実はこのことは法華経系グループの教理を根幹から揺るがす大問題でした。なぜならば、鎌倉時代の仏教は末法思想をバックボーンに成り立っているからです。末法に入り、お釈迦様の仏教が効力を失ったので、新しい仏教が必要であるというコンセプトによって構築されているのです。ですから、鎌倉時代が末法に入っていないとなると教義体系は根本から覆されることになるわけです。

 さらに言えば、そもそも末法思想の文書的根拠とされる『大集経』は本当にお釈迦様が説いたものなのか?という点を、まず検討してみなければなりません。また『大集経』のみならず、法華系グループの根本経典とされる『法華経』についても同様に考えてみなければなりません。

 現代の学問が明らかにするところによれば、お釈迦様が説いたとされる経典は後世の創作であり、実際に説いたものではないことがわかっています。当初、この学説は単に大乗仏教を批判するものであると排他的に扱われました(大乗非仏説)。しかし、これらは考古学・言語学などの科学的な研究によって、すでに明らかにされたものです。もし間違っていると主張するのであれば、科学的な証拠をもって反論すべきでしょう。

 また先にも記したとおり、古典的な解釈では華厳・阿含・方等・般若・法華(涅槃)の順番に説いたとされてきました。これは中国の天台大師が立てた五時教判と言われるものです。しかし、経典自体がお釈迦様が説いたものでなければまったくの虚構であるというほかありません。

 仏滅年代500年のズレ、経典後世創作という事実、天台教判の虚構性、これらの疑問について、何ら解答を示すわけでもなく、崩壊した仏教神話をいまだに“真実”として語り続ける、わたしはこのような姿勢を欺瞞であると感ずるものです。

 なお、一部、新興宗教グループにおいては、以上記した学問的な成果と伝統的な解釈の整合性を取ろうと苦労算段している姿を見受けられます。この多くは自由な解釈によって、もっともらしい説明をこじつけてはいますが、そのために、そのグループの教祖の言を曲げる形となっている点は見逃せません。さらに学問的な証拠によらず、「こう考えられる、ああも考えられる」と饒舌に語れば語るほど、『法華経』その他の経典はお釈迦様が説いたものでないことを是認する形になり、結局は弁明の域を一歩も出ないばかりか、自己矛盾に陥る結果となっています。

 わたしはこれら新興宗教グループの喘(あえ)ぎにも似た苦しい言い訳もまた、苦悶の選択に到る道程なのであろうと思え、むしろ、同情を寄せたい気持ちを懐くものです。

 ところで『法華経』その他の経典が創作であることから、直ちに打ち捨ててしまうのは、やや早計かもしれません。経典のなかには多くの示唆が含まれ、優れた精神も散見もできます。わたしはその点を否定するものではありません。ただ真実でないことを「真実である」と言うのは間違いであると指摘しているばかりです。

 また、「お釈迦様の説いたものを批判すると罰が当たる。教祖の教えを信じないと地獄に堕ちる」などという呪術的な怯え、あるいは脅しは、まったく意味のないものであると記しておきます。さらに言えば、創作・編纂年代という時代性を反映する経典には、多くの差別・偏見的な内容も多く見受けられます。これらの点を宜(よろ)しく取捨選択して一向にしないことが賢明な“読者”の在り方であると書き添えたいと思います。

◇『法華経』は予言の書ではない

 …『法華経』は予言の書である。お釈迦様が入滅して2000年ののち、新たな仏菩薩が現れ広宣流布をする。そのときにこれを信じて、倶(とも)に法を弘(ひろ)めるものは地涌(じゆ)の菩薩であることが予証されている…

 以上のように、わたしは教え込まれ、信じていました。現在、多くの法華系グループが勧誘・拡充にしのぎを削っています。このメンバーは、リーダーとメンバーこそ『法華経』の予言どおりに行動しているとヒロイズムに浸っています。

 一般の方には理解しにくいでしょう。少しむずかしい話になりますが、広宣流布地涌の菩薩について、簡単に記さないと前に進めません。

広宣流布”については先に簡単に記しました。言葉の出典は『法華経』(注)の薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23です。

「わが滅後の後、後の五百歳の中にて、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布」(岩波文庫版208頁)

と記されてあります。広宣流布を訓読すれば「(仏法を)広く宣(の)べ流布する」となります。現代的の“広告宣伝(広く告げ宣べ伝える)”に近しい意味であると考えればわかりやすいと思います。ただ、前者が仏教流布について、後者は利益追求に基づく用法の違いがある点は含みおいてください。

(注) 法華経』というより、『妙法蓮華経』と記すべきかもしれません。『法華経』は梵漢訓の通称です。『妙法蓮華経』は、梵本サダルマ・プンダリーカ・スートラを鳩摩羅什(くまらじゅう)という訳僧が達意に翻訳したものを言います。読みやすさからもっとも親しまれた訳本ですが、反面、内容は自由闊達であるが故に正確さを欠くとい批判もあります。

 この文で注視すべき点は「後の五百歳」という一文です。これが『大集経』の末法思想とつなぎ合わされて前項に記したお釈迦様が入滅後「2000年から2500年の間に」というドグマを形成していきました。

大集経』の文を挙げれば

「…次の五百年は我が法の中に於いて闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん」

とあります。この文の前文に500年ごとにお釈迦様滅後2000年の有様を挙げてありますので、この箇所が2000年から2500年の間を記述であることがわかります。これが薬王菩薩本事品の「後の五百歳」とつなげられたわけです。

 しかし、わたしはこの“つなげられた”解釈に大いに疑問を懐いています。その根拠は薬王菩薩本事品の梵本によります。当該箇所は

「最後の五十年が経過している間」

となっているからです。500年ではなく“50年”となっているのです。訳僧・鳩摩羅什が故意に改訳したのか、原文が500年となっていたのかは定かではありません。しかし、現代に伝わる梵本の原文では、少なくても“50年”となっています。

 また、ここを読むかぎり、この年限はお釈迦様が亡くなった2000年後の50(500)年ではなく、薬王菩薩本事品が説かれたあとの50年間を指しているに過ぎないことがわかります。梵本をもう一度、挙げましょう。

「偉大なる志を持つ求法者(ぐほうしゃ)『サヴァサットヴァ=プリヤダルシャナの前世の因縁』の章(薬王菩薩本事品)が最後の時であり、最後の機会である最後の五十年の経過している間」

となっています。つまり、この箇所は『大集経』の記述とは関係ないものであったのです。蛇足ですが、『大集経』の2000年説は、たぶん、ミレニアム思想と何らかの思想的交流によって構築された創作ではないのかと想像されるものです。

 これが「末法広宣流布」思想の正体であろうかと思います。前項にも記しましたが、現代における学問的な成果はお釈迦様の入滅年代を500年も“若返らせて”しまいました。そのために日本の鎌倉時代は末法に入っていなかったことが明らかになりました。そしてさらに、末法の始めの500年という時間的限定も実に根拠のない解釈であり、二重の意味で事実と相反していることを受け入れなければならないことになったのです。

 次に「地涌の菩薩」について記します。

 地涌の菩薩とは『法華経』・従地涌出品(じゅうちゆじゅっぽん)に登場する菩薩群のことです。

法華経』において、お釈迦様はたびたび自分の入滅が近いことを宣言する記述が登場します。この理由を『法華経』を説かれたのが、50年間と言われる説法期間の、最後の8カ年の時期に当たっているからだとするのが教条的な解釈(げしゃく)です。しかし、これは他の理由によると、わたしは考えています。この点は後述します。

「自分の入滅は近い。自分がいなくなったあと、この『法華経』を誰か弘める者はいないのか」そのお釈迦様の問いかけに弟子たちは、我こそはと名乗りを挙げます。しかしそれを斥け、「はるか過去から滅後の弘法(ぐほう)を約束した計り知れない弟子たちがいる」と言い出します。その直後、地震が起こり、割れた大地から数えることもできない多くの菩薩たちが涌き出てきたと言います…。これが地涌の菩薩登場のドラマです。『法華経』を信仰する人間にとって、忘れることのできない箇所でしょう。

 この地涌の菩薩はお釈迦様が亡くなったあと、2000年を経過し末法に入ってから法を弘めるために出現する…と解釈されてきました。つまり、『法華経』は2000年も先の広宣流布を予言したお経であるというわけです。現代、多くの法華系グループにおいて、崇拝される理由はここにあります。『法華経』はグループ・メンバーの活動をすでに予言していた、だから、実現しなければならない…自分たちは地涌の菩薩、その流れを汲むものだ…という使命感も誘発します。

 2000年後の未来を予言、実に魅惑的なことであると思います。しかし、これは本当にそうなのだろうか? わたしはこの解釈はこじつけであると考えています。結論から言えば、地涌(じゆ)の菩薩とは、この『法華経』という経典を創作した人々を指すのでしょう。

 経典創作…、お釈迦様が説いたものであると信じていたものにとって裏切られたような気がします。しかし、案外、創作者たちは善意の人々であったのではないでしょうか。

 お釈迦様が入滅した当初、行われなかった二つのことがありました。一つはお釈迦様の姿形を彫刻したり、絵像に描いたりしない、つまり、仏像・仏画を作らないこと。もう一つは教えを文字で書き留めない、つまり、経典を作らないことです。(注)

(注) 当初の仏教で行われなかったことには、実はもう一つ重要なことがあります。それは「金銀財宝の供養を受け取らなかった」ことです。
※ わたしの資料集においてある抜書集の『佛教入門岩本裕著の「」の項を参照

 しかし、その後、ギリシャ彫刻などの影響を受けて仏像が作られるようになります。また、それまで、暗誦(あんしょう)口伝によっていた教えの保存を、皆で寄り合って確認し文字化していくことが行われるようになります。これを結集(けつじゅう)と言います。この二つの新たな方法を信奉者たちが選択したときから、仏教は大きくその姿を変えていくことになりました。

 仏像のことはさておきますが、結集からさらに潤色され内容を添加されていった経典創作という大きな潮流は新興グループを生み出す素地をもったものでした。

 経典創作者の肩を持つわけではありませんが、一つだけ彼らに代わり弁明まがいのことを書きたいと思います。

如是我聞(にょぜがもん)」 漢訳仏典はこの定型句で始まります。「是(かく)の如(ごと)きを我聞きき」、現代語にすれば「私はこのように聞きました」というところでしょうか。古来、この言葉は多聞(たもん)第一の弟子・阿難尊者がお釈迦様から聞いたという意味であるとされてきました。実際、そのように意図された経典もあろうかと思います。しかしながら、わたしはそれ以外の可能性として、経典創作者たちが自分の師からそのように聞いたという意味もあったのではないのかと想像しています。また、その師は嘘を語ったと言うより永らく学んできた伝承を弟子に語ったのだと思います。

 古代の伝承のこと、尾ひれが付き、潤色され、事実からどんどんかけ離れていったと想像しても大きくはずれていないでしょう。それを聞いた創作者は聞いたままに「如是我聞」とし、記したのではないのか? そのように考えると荒唐無稽としか受け取れない『法華経』中の記述も、なんとなくその意味がわかる気がします。たとえば『日本霊異記(にほんりょういき)』を読んで、「こんなことが実際に起こるはずはない」と腹を立てる人がいるとすれば、現代であればかえって失笑を買うことになります。それでもたぶん、昔の人は本当のことであると信じていたことでしょう。伝承された物語をある時期にまとめたものであると思えば納得できます。しかし、現代を生きる我々がこのような古来からの伝承を「字句どおり本当のことだ」と真剣に語ると変人扱いされることは間違いありません。真実と物語(仮想現実)の区別がつかないとなると、これは心の病を心配しなければなりません。それにもかかわらず、宗教グループという現場では、この異常事態が依然として起き続けているのです。これは問題であると思うわけです。

 少し横道にそれてしまいました。本題に戻しましょう。地涌の菩薩の物語は経典創作者たち自身のためのものであると考えるほうが自然な形で『法華経』を理解できます。

 創作した人々は、自分たちの経典こそ最高のものであるという自負を懐いていたことでしょう。経典の権威性はその内容がお釈迦様の言葉であることによって高まります。では、創作者側の権威はなにによって高まるか? それは自分たちこそ、真のお釈迦様の継承者であるという主張によって、ということになるでしょう。

「お釈迦様は亡くなってもういない。けれど、存命中に滅後の弘教を託した弟子たちがいる…」 経典創作者たちが自分たちを正当化するために、自分たちで創作した経典のなかに、自らを投影した滅後の弘教を託された弟子を描きこんだというわけです。

 ただわたしは、この創作者たちは単なる騙り人を欺くことを目的にしたのではなかったと考えたいと思います。『法華経』のお釈迦様に継ぐ、第二の主人公である多くの菩薩たちは、ときには瓦礫を投げつけられ、杖で打たれ、刀で斬りつけられ、命を落とすというシュチエーションで記されています。このようなひどい迫害を受けた人々が経典を創作したのでしょう。その艱難辛苦のさなかで2000年もあとに再登場する人物を記述するでしょうか。それより、いま現実と闘っている自分たちを記述したと考えたほうが、よほどしっくりと理解できます。

 先に「お釈迦様はたびたび自分の入滅が近いことを宣言する記述が登場します。この理由を『法華経』を説かれたのが、50年間と言われる説法期間の、最後の8カ年の時期に当たっているからだとするのが教条的な解釈」であるけれど、これには他の理由があると記したのは、以上の理由からです。従来、お釈迦様滅後2000年後の500年と思われてきた薬王菩薩本事品の「わが滅後の後、後の五百歳の中にて…広宣流布」は同品(どうほん)説法後の50年であったことはすでに記しました。このことを考え併せても、『法華経』の記述が2000年後の未来を予言したものではないことがわかります。

 経典群の創作と並行する大乗仏教運動の勃興、救世主思想の流入、そこで理想的な信仰者の姿とされたのが菩薩(注)でした。菩薩を理想として実践する人々は現実の社会のなかで救済に当たっていたかも知れません。その創作者たちがはるか未来に思いを馳せていたでしょうか。仮に彼らが凝視した未来があったとすれば、それは2000年先のことではなく、自分たちがいま生きている時代を、お釈迦様滅後の未来と見たてたのでしょう。

(注) 法華経』に登場する“菩薩”については“仏典訓読の問題点『勧持品』二十行の偈の訓読の疑問・法華経の菩薩の御相を拝す”において論考しました。
 

− つづく −


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