UPDATE:'99/03/13

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 心理学者でもないわたしが「心理学的に…」などと書くのは僭越なことです。しかし、わたしが立ち直っていく過程で、社会心理学的な視点はもっとも有効なことでした。もし、カルト・マインド・コントロール論との出会いがなければ、いまでも出口を見いだすことはできなかったと思います。
  ですから、過去にカルト・メンバーであったわたしが考えていたことをまず挙げ、その時の一々の心理が、参考にした本のなかではどのように説明されていたかを並列しながら、謎解きを試みたいと思います。……実はそれがここ数年間のわたしも心のリハビリの道程でもあったのです。
  たぶん、カルト経験者、また、メンバーを家族に持つ方には参考になるのではないかという期待もあり、蛮勇とは知りながら、記させていただきました。
  カルト・メンバーの半歩先を歩く存在であるわたしは、その人たちが、ちょっと手を伸ばせば届く距離にいます。
   脱カルトという恐ろしく心細い、そして、疎外感に押しつぶされそうになる過程で、少し前を歩くたしかに見える存在は、勇気を与えてくれるものであることをわたしはよく知っています。カルトの、同じ被害を受け、そして、同じ過ちを犯したわたしは、一人でも多くの同じ苦しみを感じた人に優しく手を差し伸べたい、そんな気持ちを懐いています。どうか、その気持ちに免じ、専門家でもないわたしが心理学に触れることをお許しいただきたいと思います。

 

 

  私は、生まれたときから所属していた新興宗教を脱会してから10年の歳月が経過しました。

  以前、テレビに出演された弁護士・滝本太郎先生が「カルトのマインド・コントロールが脱けるのには所属したのと同じ時間がかかる」と話されたことがありました。とすれば、いまのわたしの人生は脱カルトのいまだ途上にあることになります。

  十年という時間は自分を冷静にさせるのに、まだ充分ではないかも知れません。なぜならば、わたしが初めてリーダーに会ってから、三十年以上の歳月が流れているからです。それでもなんとか、ここ数年で一般の人々の思考パターンを理解できるようになり、それにしたがって、カルト当時の自分の思考パターンの異常性を客観視できるようになりました。

  科学としてのマインド・コントロール論との出会い

  わたしの脱カルトにとって、たいへんに有効であったのは静岡県立大学の西田公昭先生がお書きになられた『マインド・コントロールとは何か』という一書でした。

  この本のもっとも優れた点はカルト団体と目されるグループ、また、メンバーに共通する破壊的カルト・マインド・コントロールの実態を客観化することに成功している点にあると、わたしは考えています。

  カルト・マインド・コントロールを世に知らしめたスティーヴン・ハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』も、もちろん、優れた一書に違いありませんが、かなり文章量があり、また、特定の宗教団体を問題にしているために、その他のカルト団体に当てはめるのには各人の知的努力を必要とするうらみがあります。

  それに対して、西田先生の『マインド・コントロールとは何か』は、破壊的マインド・コントロールが、社会心理学上の問題であり、心理技術の使用であることをより鮮明にされています。(注1)

  これは、マインド・コントロールは「宗教上の教義、あるいは教義解釈の誤りによって起こる」とする短絡的な発想が支配しがちなカルト論議から一歩、科学に足を踏み込んだものです。

  この書は、いかなる団体あれ、個人であれ、その本体が正であれ、邪であれ、マインド・コントロールは心理技術として、使用可能であることを明らかにしました。(注2)

  わたしが『RMCって、なに?』のなかで「カルトというのは特定のグループを指すのではなく、その『状態』を指すものであると考えています」と書いたのは、この事情によります。

  カルト・マインド・コントロールは、宗教的視点ではなく、科学的視点、すなわち社会心理学から見るとき、初めて正確な理解が可能になると考えるものです。

  もう一度、過去を書き出す

  ここでは、ハッサン氏が「カルト時代の体験を全部、書き出すこと…自分の体験を完全に見極める作業として、私はすべての元メンバーにこれをすすめる」と書いた奨励に従って、過去の経験を記そうと思っています。(参)経験を書き出す

  実はわたしが自分の過去の経験を書き出したのは、これが初めてではありません。数年前に一度、挑戦したことがあります。その原稿を晩聲社に送付したところ、当時、同社に勤務されていた土肥寿郎さんが見てくださいました。そのアドバイスの際に提示された本がスティーヴン・ハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』であったという経緯があります。

  しかし、当時、原稿を書いたときはグループ、また、リーダーへの憤りがもっとも高まっていた時期でした。いま、そのような感情を克服することができ、より冷静に過去の、カルト・メンバーであった自分を振り返ることが可能になりました。ようやくと客観性を得ることができた現在、もう一度、かつての経験を書き記そうと思った次第です。

  ここでは「メンバーであったわたしを心理学的に反省してみると」「脱会で失ったもの ― 精神的空虚」「宗教依存症からの脱却」という3項に分けて書いてみたいと思います。

  特にお子さんをカルトに取られた親御さん方にとって、カルト・メンバーになったわが子が、いったいいま何を考えているのか、その心を正しく認識されることはかなりむずかしいことです。メンバーの心理を理解する困難さは一般の方々にとっても同様であろうかと思えます。この拙稿がその理解の一分のお役に立てば幸いです。

  なお、わたしはある特定宗教の会員であったのですが、ここではカルト・マインド・コントロールに焦点を当てるために、あえて、その具体名は記さず、宗教団体・組織は“グループ”、その指導者は“リーダー”、信者は“メンバー”と言い換えています。

  「メンバーであったわたしを心理学的に反省してみると」

  カルトをやめて、しばらくして気づいたことは、いままで自分が信念で行っていたことを一般の人々は全く逆に感じていた事実でした。もちろん、それはやめる以前にもわかっていたはずですが、それでも改めて実感したとき、ショックは相当なものでした。

  カルトのわたしが信念であると感じていたこと。それは第一には世界平和(注3)への貢献・第二には自己変革(注4)、大まかに言えば、その二点になります。そして、その二点を支えるものはリーダーへの絶対的服従ということでした。

  世界平和

  第一の「世界平和」という言葉は実に便利な言葉です。いかなる団体でも「世界平和」は簡単に掲げられるからです。「世界平和はヒットラーでも言っていた」とは、どなたの言葉であるか思い出せませんが、なるほどと頷かされる箴言です。

  わたしが所属していたグループでも世界平和は大事な表看板でした。一切の宗教活動は世界平和につながっている。そんな夢想を誰しもが懐いていました。リーダーを信じるのも、朝晩の祈り(注5)をするのも、会合に参加するのも、すべての活動は世界平和を実現するためと信じていました。

  しかし、それは実体のないかけ声だったのです。さらに言えば、実体がないだけならばまだしも、平和と裏腹に、グループは、自分たちとその他を完全に分けて、すべての善は自分たちに、すべての悪は他者にありとし、自分たち以外の宗教・政党を憎悪させることによって、メンバーを縛りつけていました。(参)二者択一

  ことに脱会者に対する憎悪を煽ることは徹底していました。脱会した人は、たとえ親族であれ、憎悪の対象となります。

  「裏切り者」とは脱会者に対する蔑称です。脱会した人を裏切り者と呼び、憎悪すること。それは平和を希求する感情とはまったくかけ離れたものであるといえるでしょう。

  いやもし、このような他者蔑視によって成立する世界平和があるとすれば、それはその覇者が他の敵対者をすべて滅ぼして成立する自分たちだけの“平和”です。他者にとって、このような状態は、平和どころか魔女狩り盛んなりし中世ヨーロッパさながらの恐怖の世界です。

  ハッサン氏が

  「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」(参)反対に我慢できない心

  というカルト・メンバーの心理は、カルトのわたしの心理そのものでした。

  世界平和を叫ぶ舌の根に憎悪がひそむ。なんとも恐ろしいことですが、これは偽らざるカルト・マインド・コントロールの実体です。

  メンバーであったわたしの心は、平和希求と他者蔑視・憎悪というまったく相反する心理の同居を、矛盾とも感じられない奇妙なものであったのです。

  しかし、これはわたし一人の心理ではなく、心理操作されたメンバーの心そのものでもあります。

  では、この“憎悪”というものはどこから発しているのか。その源を訪ねると、それはリーダーから発せられているものでした。そう記すには、それなりの根拠があります。

  かつて、リーダーが「脱会者を自殺に追い込め」と檄を飛ばした逸話が伝えられました。また、自分の弟子の名前を連ねたノートがあり、その名前に朱線を引いて「背いた」と記すと未来永劫、二度と人間に生まれることができなくなるという話がまことしやかに語られたものでした。

  そもそも一人の人間が他の人を永遠に地獄に堕とすなどということはできませんが、そのような言辞を吐く心根には敵対者に対する強い憎悪が看て取れるとともに、およそ平和とは無縁な独裁者特有のエゴイズムが渦巻いていることが窺い知れます。(注6)

  いまグループが発行する新聞に目を通すと、その内容は世界平和と敵対者攻撃で大きく二分されています。リーダーの世界平和の貢献を格調高く謳い上げる反面、敵対グループへの論調はいかにも口汚く実に対照的です。この新聞はいわばメンバーの教化内容と軌を一にするわけですから、かつてわたしの心のなかに移植された心理はまた、いまのメンバーたちに“与えられる心理”そのものなのでしょう。そして、それがリーダーから発せられてる証拠は「新聞はリーダーからの手紙」というグループ内の指導が雄弁に物語っています。

  また、リーダーの煽動を真っ向から受けたメンバーが「リーダーの敵(かたき)をとる」と言って、追撃の手を緩めないのも強く憎悪に煽られた結果です。

  一般の人々が「世界平和に貢献しよう」と考えると、「それは大変なことだ。ちょっと、自分にはできない。でも、やるとすれば、手始めはボランティアかな?」と思いあぐねたり、「武力行使を留め、飢餓と貧困をなくし、差別をなくし、……えーと、それから」と次々と具体策を考えていくことでしょう。

  ところが、カルトではそんな煩瑣な思考は無用です。「世界平和はリーダーが実現してくれる。リーダーに付き従えばよい。そのリーダーを信じて日々祈り、活動する。それがすなわち、世界平和への最大の貢献することなのだ」と考えるからです。

  しかし、宗教団体であれば、政教分離という鉄則は固守されなければならないでしょうし、また、具体的な平和活動があってしかるべきであろうと思います。もちろん、それは歌ったり踊ったりというアピール活動ではなく、もっと地道な活動が、ということです。

  リーダーが言うように、一人の人間の自己変革が国益に寄与し世界平和に貢献する、もし、この大義名分が事実であったとすれば、なにも否定されるものはないでしょう。しかし、グループにいたメンバーとしてのわたしの宗教生活はけっしてそのようなものではありませんでした。

  朝晩の祈り・日々の会合参加・布教、そして、政治活動の繰り返し。ただ、それだけでした。そして、ときおり、開催される平和の祭典に演技者として参加する。それだけでメンバーの平和寄与という欲求は満足してしまうのです。

  自分の身体を危険にさらすこともありません。不衛生な環境に自分を投じる必要もありません。飢餓に苦しむ人に手を差し伸べることも、病気に苦しむ人の介護に当たることもありません。不衛生な環境、戦火逆巻く危険な環境に身をおくこともないにもかかわらず、自分たちほど、平和に貢献しているものはいないと自負できる神経。それこそが、このグループによってもたらされた錯覚でした。

  これはちょっとしたエピソードですが、かつてわたしが所属していたころ、「東京に台風が来なくなったのは東京にメンバーが増えたためで、何よりもリーダーが東京にいるからだ」(注7)とメンバーは本気で信じていました。

  新しいメンバーが、「どうしてリーダーを信じて、祈ったり、活動することが世界平和に貢献することになるのか」と質問すれば、「やっていけばわかる」という答えが返ってきます。実際は「やっていけばわかる」のではなく、「やっているうちに、そう信じるようになってしまう」だけでした。

  そして、与えられる答えとは「いま、日本が平和なのはリーダーがこの世にいるからだ。リーダーがグループを発展させ、日本を平和にしたからだ」というように、平和という言葉はあらゆる形でリーダーに還元されていきます。

  つまり、世界平和=リーダー>グループ>メンバーという作為がここに窺えます。

  このような還元論でもっとも問題なのは、心理操作が当然のように金銭の拠出と関連付けられていることです。

  「世界平和を実現するためにはたくさんのお金が必要である。世界平和を実現するためにお金を出して、世界平和を実現するリーダーに使ってもらおう」と論は短絡的に展開していきます。そして、それは「真心の献金(注8)こそ信心の表れ」とあおられ、人々は世界平和のために、という名目でお金を出し続けるように仕組まれています。

  これは要するに世界平和=リーダー=献金ということです。もちろん、実際には、この作為的な理屈を幾重にも複雑に織りなし、もっともらしく、そして、確実に信じられるように舞台装置は整えられています。グループ内という“環境”は、金銭を拠出するこを当然のことように信じ込むために、万全に管理された場なのでした。

 自己変革

  第二の「自己変革」(注4)ということはメンバーである自分にとって、もっとも身近な課題でした。しばしば「人間としての成長」とも呼び習わされていた人格変革というグループ独自の教義は、いま概観すると、徹底してリーダーとの一体化を目指したものであったことがわかります。このことは、つまり、目的の共有化を可能にするものです。

  それは「リーダーに呼吸を合わせる」などと表現されていましたが、人格変革の完成形とはリーダーとの同一化(注9)ということでした。

  ただし、誤解がないようにお断りしますが、わたしは人間が精進し、また、鍛錬して、より自分を高めていこうとする努力を否定するものではありません。 メンバーの情熱、努力、それを可能にする集中力のすべてが、正常に作動し、社会に還元されたとしたら、それはすばらしいことでしょう。(注10)

  しかし、日本の繁栄のためといい、世界の平和のため、人々の幸福のためといって、メンバーが邁進しようと、その結末はグループを潤わせ、リーダーに心酔するように仕組まれているばかりです。

  なにより、グループでの活動は信じられないほど、多忙です。とても、それ以外の行動に時間を割く暇などありませんでした。

  ところで、グループの疑似平和活動に熱狂するメンバーは、ときに劇的な性格の変貌をきたし、周囲の人々を驚かせます。消極的であった人が積極的に、暗い印象であった人が突然、明るくなったりします。このような状態になったメンバーは、自分が変革しているという深い実感を懐くことになります。また、他のメンバーも、間近な人格変革の実例として、そのメンバーに憧憬の眼差しを送ることになります。

  このような性格の変貌を起こす要因は、なんでしょうか。自分の過去の状態から類推すると、過度の自己過信による結果でした。では、自己過信を可能にするものは問えば、それは世界で唯一正しいリーダー・グループのメンバーであるという底なしの自信に裏打ちされたものでした。(注11)

  リーダーを究極の理想像とするメンバーが目指す平和と、その活動。それは、やはり、リーダーの軌跡をなぞるものとなります。

  リーダーの平和活動の実態を調べてみますと、すぐに気が付くことがあります。世界の要人と会ったり、平和提言を行ったりはするものの、戦地や被災地に赴いて身を危険にさらすようなことや、難民キャンプや伝染病が蔓延するような健康を害する可能性のある場所には行っていないという事実です。

  常にボディーガードに囲まれて、最高級の外車に運転手付き、そして最高級の衣服を着込み、拍手と喝采に迎えられる所にしか出向いていないのです。年間、数億円にも昇る給料、グループのすべてを占有し、一身に尊敬を集めるように周到に準備された演出があるばかりです。

  内容を欠いた平和論ほど、虚しいものはありません。メンバーは、そんな上っ面の張りぼてのような平和活動を類い希な尊いものであると錯覚しています。

  リーダーを同一化を目指すメンバーは、一度は劇的な性格の変貌を遂げ、表面的に人格が変革したように見えたとしても、リーダー・グループの思うままに、すべてを選択してしまいます。(注12)その結果、リーダーとグループの搾取の恰好の餌食となり、貴重な人生の時間と、労働力、さらには金銭までも、名ばかりの平和活動につぎ込んでいくハメになります。

  わたしは脱会してから、このグループで言われていた自己変革の仕組みを考えてきました。その結果、おおむね、それは恐怖と自己陶酔型の代理状態に入ることによる服従によって、第三者(リーダー・グループ)心理操作を可能にしているのだろうと推測するに至りました。

  “恐怖”による操作というのは、特にカルトに限ることではないかも知れません。「悪い行いをすると地獄に堕ちる」とか、少し以前でしたら「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」というように一般の家庭の現場でも、この宗教的な教義に含まれる恐怖は方便として教育に利用されたものでした。

  しかし、グループにおける恐怖は、リーダーとグループへの背信と関連付けられているところにその特異性があります。

  たとえば一般の人は特定グループのリーダーを信じないと地獄に堕ちるとは思わないでしょうし、グループの活動に疑問を抱くことがいけないとも思わないでしょう。

  しかし、メンバーであったわたしは、もしリーダーを毛先ほどでも疑うことがあれば、すぐに悪いことが起き、死んで地獄に堕ちるとかたくなに信じていました。また、グループの打ち出す方針と活動は絶対であり、ともかく、なにもわからなくても徹底的に活動しなければ、やはり、悪いことが起きてしまうと信じていました。もちろん、これはわたし一人のことではなく、グループ・メンバーに共通する心理であることは言うまでもありません。

  ところで、グループは基本的に経典としては『法華経』を拠り所としています。そのなかの、

  「法華経を読み暗誦し、書いて持っている人を見て、軽蔑し、賤しみ、憎み嫉み恨みを懐く者の罪の報いを、お前はいままた聞きなさい。そのような人は命が終わったのち、阿鼻地獄に堕ちるのである」(注13)

  という一節は、リーダーやグループに不信を抱くと地獄に堕ちることの証左とされていました。

  しかし、客観的に見れば、『法華経』を信奉する宗教団体はあまたあり、また、教団ではなくても個人的に『法華経』を読んだり、写経をする人は数多くおられることでしょう。いま挙げた法華経の文は、文意からすればまさに、それらすべての教団・人々を包括するものです。

  教義の“解釈”というのは便利なもので、「現代的な意義から言えば」などとうそぶいて、「真の意味で『法華経』を読み暗誦・書持するのは我がグループ、なかんずくリーダーのみ」とできるのです。これによって『法華経』が編纂された当時の元意は完全に喪失し、「『法華経』の正しい修行者は自分たちのみ」というレトリックを可能にしていきます。

  このレトリックによって「恐怖」を武器にして、リーダーを信じ込ませれば、メンバーはグループが用意した解釈のみを信じるようになります。もちろん、そのために勉強会などによる教えこみが威力を発揮します。この教え込みによって、あたかも麻薬を常用するようにリーダー・グループを信ずることの陶酔と、そして、不信には身の毛もよだつ恐怖心が強力に植え込まれていきます。

  このような教義の自己解釈を利用した心理操作のテクニックは枚挙にいとまがありません。

  なお、恐怖心が破壊的マインド・コントロールにおいて、強力な武器になっていることはハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』においても、随所に「恐怖」の記述が見られることからも明らかです。氏はマインド・コントロールを可能にする四つの構成要素中、感情コントロールのなかに恐怖による操作を加えています。

  また、それは、ハッサン氏が所属したグループ、また、わたしが所属したグループに留まらず、他のグループでも同様に恐怖心によってメンバーを操作することが行われていることからもわかります。特定宗教を挙げ、破壊的カルトの特質を挙げている本を何冊かご覧になってください。100%“恐怖”操作の実体を指摘する記述を発見できるでしょう。

  それにしても、いまとなって思うのは、自分のグループのメンバーを教化するのに、恐怖心を利用するのは、実に卑劣な行為であるということです。

  恐怖心による操作というのは、どうして可能なのでしょうか。これは実は条件反射を利用した心理的な効果、ハッサン氏はこれを思考停止の技術と呼んでいます。

  さらに、このような心理操作を可能にしているのが思考をコントロールするグループの教え込みによると指摘しています。すなわち、

  「マインドコントロールの第二の主要な構成要素である思想コントロールの内容は、メンバーに徹底的な教え込みをして、そのグループの教えと新しい言語体系に身につけさせ、また自分の心を『集中した』状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良いメンバーであるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない」

  といいます。

  つまり、人格変革というべき劇的変化は、この思考停止に支配されたカルト・マインド・コントロールの結果なのです。

  実際に自分の過去を振り返ってみると、このハッサン氏の指摘はわたしのカルト生活そのものであったことがわかります。

  すでに高校生の頃から連日連夜の会合において、徹底的にリーダーの“すばらしさ”、忠誠をたたき込まれました。

  私が生まれる以前からメンバーであった母は「もし、リーダーが暴漢に襲われて殺されそうになったら、代わりに盾になって死んでくれるような篤信(注14)な子どもに育ってほしい」と常々語ったものでした。

  わたしの命はリーダーのためにある。わたしはリーダーを求めてこの世に生まれてきた。だから、リーダーのために闘って一生を終えるのだ ―― 高校生のときのわたしは心底、そのように考えていました。

  リーダーの盾になって代わりに死ぬことが篤信であるという倒錯した信念。それを支えていたものはいったいなんであったのか。実は、それはグループ内でまことしやかに語り継がれた篤信な人だけに伝えられる秘密。それを知ることができたという自己陶酔によるものでした。それは「リーダーは実は宗祖の生まれ変わりである」というものです。

  あとになって、リーダーはそれを否定しつつ、しかし、それでもグループ内で囁き続けられたこの創り話がリーダーの自作自演であったのか、特定のメンバーが立てた単なるうわさ話であったのか、いまとなってはそれがどちらであるかは、もうどうでもよいのです。しかし、“秘密めいた話がもたらす心理的効果”がわたしに働いていたのは間違いのない事実でした。

  その心理的効果はおおむね二つありました。

  一つは自分だけが知り得たという希少性の獲得が信念をより強固にしていたという事実です。

  R・チャルディーニ博士は、

  「ある情報を得ることを禁じられると、私たちは、禁じられる以前よりもその情報を求めるようになり、その情報をより好ましく思うようになる」(参)検閲

  「希少性の情報に関するニュースそれ自体も希少なものであるという事実が、そのニュースの説得力をとりわけ高める」(参)希少性が説得力を増す

  と、その心理的効果を指摘しています。

  「宗祖の生まれ変わり」という秘密話は、このような心理効果を喚起させ、あまりありました。

  そして、もう一つはそのような秘密を知り得ることができた自分の特権性です。それはエリート意識と換言してもよいかと思います。

  『マインド・コントロールの恐怖』に種々綴られるカルト・メンバーになったことによるエリート意識は、わたしにとっても心理的には同様のものでした。

  たとえば、自分が特別な存在であり、絶対者に選ばれたという喜び、そして、絶対者と等しいリーダーの許に特別な使命を与えられているという心理的高ぶりはグループ内のどんな辛いスケジュールもむしろ喜びと変えるのに充分なものでした。

  世界唯一の正しい教えと、さらにその中で、篤信のエリートのみが知り得る希少性に満ちた秘密話。それにあやかろうとする欲求は、リーダー・グループを否定する一切をシャット・アウトする「思考停止の技術」という心理プログラミングによって防御されたものです。このような状態は極度の自己陶酔を起こさせるものでした。

 

 

― つづく ―

いわたち せいごう


 

(注1) この点は当サイトに特別掲載されている『破壊的カルトの問題は社会心理学の説明課題』で明確にされています。
(注2) もちろん、宗教者が書かれたカルト・マインド・コントロールの批判書にも多数優れた書籍があります。それらを否定するものではありません。それらはカルト団体の違法性を弾劾したきわめて有効なものでした。
(注3) グループにおいて世界平和は仏国土の建設、また、仏教が流布することを意味する仏教語と同義的に使用されモチーフとした仏教との整合性がはかられています。
(注4) ここでは自己変革と記しましたが、実際はグループ特有の四字熟語で表現されています。それは仏教の“成仏”の概念と整合性をはかられるとともに、先代リーダーから書かれ出した自己喧伝型小説の題名ともなっています。
(注5) 朝晩の読経、一日三千遍以上の唱えごとというのがわたしがいた当時の指導でした。また、宗祖を念じるのもリーダーも念じるのも同じことだという心理操作が行われていました。現在は少し緩和され、むしろ歌・踊り・祭りなどにウエイトが移っているように映じます。
(注6) このような発言に至る心理的要因は存在の配分という特徴と一致します。
(注7) このプロパガンダは“地球温暖化”という科学的証明の元にもろくも崩れ去り、現在はなりをひそめているようです。
(注8) 実際は“献金”という言葉は使われていません。仏教の供養と整合化が図られたグループ特有の固有名詞がありますが、ここでは置換して献金としてあります。
(注9) 同一化はミルグラムが言う“代理状態”の特徴と大部一致します。グループのそれは仏教の子弟不二、または師(弟)子一体という血脈論を援用し、創作されたものでした。
(注10) ハッサン氏は「マインドコントロールの被害は、何百万人ものカルトメンバーやその子ども、友人、愛する人々だけでなく、私たち社会全体に及ぶ。合衆国は最大の人的資源を奪われているのだ。人類にたいへんな貢献ができる聡明で理想に燃えた志のある人々を、カルトに奪われている」と合衆国のカルトによる被害を記しました。この事情は日本においてもまったく同様であると思います。そのメンバーがカルトに注ぐ労働力、金銭負担を直ちに社会の福祉に充てられたとすれば、それはどれほどすばらしいことでしょうか。
(注11) 入会に至るまで、過去の劣った自分との決別という通過儀礼があります。入会後、それまで経験したことのない程の熱烈な歓迎をするなど、グループは新入会者をある種、スターのように扱う傾向があります。それを始まりとして、人々の前で話すなど、自己に多くの視線が寄せられる経験、さらに教え込みの会によって、自分がリーダーの使命を帯びた特別な人間であるというカルトの人格が植え込まれていくに連れ、自己過信は強まっていきます。
(注12) このような心理操作は経験から考えると、特に煽動を目的とした会合の熱狂した雰囲気のなかで心理的植え込みが行われていたように思います。(参)グループ・ダイナミックス
(注13) 『法華経譬喩品』「(法華)経を読誦(どくじゅ)し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨を懐かん。此の人の罪報を汝今復(また)聴け。其の人命終(みょうじゅう)して、阿鼻獄に入らん」を現代的に書き直してみました。
なお、このような法華経に説かれる恐怖思想については当然、異論を唱える学者もいます。
 (参)渡辺照宏『日本の仏教』法華経の成立
 (参)岩本裕『仏教入門』 インフェリオリティ・コンプレックス
(注14) ここでは「篤信」という言葉を使っていますが、実際は「信心強盛(ごうじょう)」と言われるのが常でした。

 


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